長男よりメキシコからの手紙 昭和4年9月14日附
豫定通り9月13日の午前7時3分ホノルルに無事寄港致しました。出發の際は多大の御深意に預り、到底口筆にて御禮を申上盡くす事が出来ません。それ故為するに對し出来る限りの本分を盡くして行き、飽迄も吾が最初の希望を完徹する事に依って御禮申上ぐる次第で御座います。それも一日も早く。(併し此の早くといふ意は私としてはあせるの意ではありません。)
右の真心からの言を持ちまして9月1日の御見送りの御禮と致します。
何れメキシコの佐田様へ到着次第御詳細申上ます。それ故、此の手紙には関田氏との付合、船中の様子、太平洋の様子、ホノルルの様子等を簡単に御話し申上ます。
{関田氏}
A、思ったより氣が大きく物事に餘りけちでない事。
B、思想の相寄る処がある事。
是等の結果、非常に氣が合ひ、将来共に相助くる友人、いや義兄弟ともいふべき友になれると思ひます。彼も此の夢は同感であると思ひます。それは全ての行ひで判ります。
{船中の様子}
A、洗顔
水の出る時間が定って居ります。
午前6時半より7時半迄。
午後4時半より5時半迄。
B、ラジオ新聞が貼り出されます。
(無線電信にてのもの)
11日には東京に大暴風雨があって、何でも須田町駅の屋根が吹き飛ばされたり、方々に浸水があったさうですが、別に御変りは御座いませんか。
C、おふろ{湯の事}
午前9時より10時迄 男
〃10時より11時迄 女
併し毎日はなくて1週1回の割。
D、食事
大勢で食するのです。
御飯、汁、茶、沢庵漬、薤、生姜、梅干、是等は幾らでも御代りが出来ます。
但し、汁は朝食だけ、その代り朝食以外の晝、夜は魚、肉、野菜などの煮染が一皿あります。
朝食午前7時半、晝食午前11時、夕食午後4時、是等の合圖は鐘が鳴ります。
E、寝起きの規定時間なし。
次にホノルル迄の簡単な日記を御示し致します。
午後1時半、沖にて検閲あり、3時半頃済みました。
此の間碇泊。
3時半より速力1時間13哩平均で一路ホノルルに向って進行、4時半頃より四面蒼海、海面(水平線の事)が円く見え、空にたなびく雲は雲で、矢張り円く覆ひ被さって来る様に見えました。{以来同じ}
二日、晴天、時計を40分進ませろといふ貼紙が出ました。{毎日20分づつ進ませる事になって居ます。}
飛魚を沢山見受けました。{以来毎日}
三日、午前9時頃迄雨で、後晴天。此の日はおふろがありました。
四日、晴天、夜9時頃、遥かかなたに、小指程の明りのついた汽船を見受けました。
五日、晴天、夜7時半より9時半迄、面白い活動冩真がありました。此の夜、初めて三日月を見受けました。{此の夜以来毎日見受けました。星が海面に浸るかと思ふ位の低い処に見えますのが沢山あります。}
六日、晴天、夜8時半より沖縄県人や支那人等の空手術及び黒人(名はブレンテイノ、スペイン語と英語が出来る人なので、友の様に話合ってゐます。年は二十七才、背丈五尺四寸位でパナマに行く人です。)と沖縄人とのボクシング(拳闘の事)等を月夜の甲板の上で楽しく見ました。
七日、晴天、別状なし。
八日、晴天、〃
八日、晴天、〃 {百八十度の処を越したので八日が二度ありました。}
九日、晴天、九月十一日夜八時より第五号室(吾々の三等船室の事。第一、第二、第三、第四、第五号迄、皆三等ですけれど、室が別れてあるのです。)の有志等を集めて懇親会を開かないかといふ事を私と向山{此の人の名刺を此の手紙中に入れて置きました。どうかしまってて下さい。年二十九才}との二人で相談し、幸にも纏める事が出来ました。
十日、晴天、午前八時頃、私が書いた懇親会のビラが船室に一枚づつ貼りだされました。午前九時から十時までおふろがありました。夜七時半より九時半迄面白い活動冩真がありました。
十一日、午後一時頃より室の飾り{旗やカンナ屑で出来た、美しい鎖やうの物等}を大勢で致しました。夜、八時頃より後藤船長、事務長を始め、吾々合計四十三名集って、盛大なる懇親会を開きました。中には黒人{ブランテイノ}一名、ロシヤ人一家族{父三十五才位、母三十才位、女の子供十二才位、同妹八才位、彼等もメキシコ市へ行くのです。此の一家族とも付合って居ります。メキシコへ行く人は合計十七人居ります。}等が加ってゐるので仲々愉快でした。
私は國木田獨歩集中の色々の詩吟{八種}や種々の歌を発起人故、しっかりやって皆をあっと言はせました。{私は飽迄も皆の頭となるやう、かつ認められるやうに務めて居ります。}{餘り出しゃばらずに、要領良く。}
十二日、晴天、ヱハガキの裏に八日から書いて居りました、色々の御禮旁々報知の文を復読致しました。合計三十七枚。{家のは別也}
十三日、晴天、午前七時半迄に朝食を済ませ、八時、甲板上に洋服をきちんと着て整列をなし{乗船者一同}ホノルルからの検閲官の検閲を受け、午前九時半に済みました。{入港七時三分、併し桟橋に横付けになったのは九時四十分}ホノルル市を甲板上から見てましたが、それは美しい小じんまりとした街でした。上陸をするには千弗{日本金で二千百六十円也}を米国政府に積立てせねば出来ない事になってゐるので、一等船客二、三名の外は皆甲板上から見てゐるのです。ハワイ島は見た処、平原少く山の多い処でした。
太平洋の様子
日本の近海は波荒く、二日目は非常に薄らぎました。
五日目当りになりますと、海の色が青黒い色を呈してゐました。
十日目近くになりますと、紫の色、ホノルル近海は黄みを帯びた薄黄青です。
太平洋の大波{風の無い時でもあります。}は非常にゆったりしてゐるので、さして船は揺れません。それに好天気続きだったので乗船者{支那人約百八十名、ペル-行きは毎日博打ばかりして暮らして居ります。中には十三才位の子供も交って居ります。船では外人だけは許してあるさうです。沖縄人約六十名(ペル-行き)、内地人約六十名(ペル-行きが大多数)、船員約百名}の中に船酔をしてる人は僅に五名位しか見受けませんでした。勿論、関田氏も私も船酔などは致さず、非常な元氣で暮して居ります。
皆様は別に御変りはありませんか。と言っても隔路が餘り離れてゐますので、考へて見れば非常に心細い事です。それ故以前以上に、身体を大切に致しましょう。
今此の手紙を書いてる場所はお父様やお母様の御覧になられた室とは違って居るのです。それはホノルルに着す一日前の十二日より、男女の別をはっきりさせる為に、男は男、女は女といふやうに、たとえ夫婦者であらうが、子供であらうが、別の室に変へられました。(米国の検閲者に女の室に這入ってるのを見つかると、五百弗以上二千弗迄の罰金を請求せられる由)但し是は米国港(ホノルル、ヒロ、サンフランシスコ、ロスアンゼルス)に碇泊した時の事なので、ほんの假替へなので、そっちこっちが大変ごたついてゐます。それで手紙を書く机もなく、枕の側で揺れながら書いてゐる次第です。それも薄暗い電燈の下で。殊に今日は非常に疲れてゐますし、それに明朝七時頃ヒロ(布哇群島中の一番大きいハワイ本島の港)に着くのです。そして今日したやうに、検閲で暑い陽照りの中に立たせられなければならないので、身体をうんと休養させなくてはいけないと思ひますから、此の手紙を清書せずに差上げます事をどうか御許し下さい。{もう今は九月十三日夜の一時半頃なのです。}晝間は蓄音機をやるやら、色々の話などをそっちこっちでやってうゐるので、とても手紙などは書けず、又寝るこ事も出来ないのです。又、甲板はと言ひますと日光の直射を受けてて暑く、とても出てゐられないのです。それ故こんな晩くなった人の寝沈まった頃書く次第です。
昭和4年9月13日 夜一時半 丈穂
お父様
お母様
テルちゃん、サアちゃん、ミイちゃん、ノウちゃんにもどうか宜しく。
追述、石川様の御住所が板橋町としかなかったので、滝野川の大正大学近くといふ事にして病院宛に差上げました。どうか佐田様宅宛に至急住所を御知らせ下さい。御願ひ致します。又、キングの十月号(九月五日発売)十一月号(十月五日発売)に私の出しました「正義は輝く」の小説の発表がある事と思ひますから、念の為見て下さい。
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ホノルル港を正午の十二時十分に出帆し、ヒロに向って進行してゐます。{第一通知終り}
別封にて、光果殿、咲良様、美土里様、登殿にヱハガキに書いた文を差上げました。又何にも書かないヱハガキも差上げました。
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