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2009年7月

明治四十年(1907年)六月廿三日 日曜

晴。

起居身體 午前七時起床、午後十時就褥す。

見聞行事交際 午前大人と令息い正秀君と共に、山に遊び植物採集をなす。午後讀書すること數時にして、五時出發歸校す。

月かげは昨一昨夜かはらず、此月はたゞ一人ながむるか。

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明治四十年(1907年)六月廿二日 土曜

晴。

起居身體 午前五時起床、午後十時過就褥す。

見聞行事交際 朝より午後二時過まで妹と相かたる。今日は歸校せんとしたるも、大人午後二時過歸宅し給いひて、とゞめられしまゝに之に従ふ。夕食後一時間ばかり、妹とかたり又散策す。妹が弟君の二人も加はる。大人は今日も宿直。

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明治四十年(1907年)六月廿一日 金曜

晴。

起居身體 午前六時起床、午後十一時過就褥す。

見聞行事交際 午前八時過中野書店員來校し、標本はまぐりの酒精漬を送りとゞく。尚持參したる書籍數部を學校用として買ふ。

午前九時出發、病氣を見舞ふべく妹がりへ行く。妹が病はさほどにはあらねど、腦の患さへ加はりたるあれば、暫く静養を要するなりと。夕刻まで妹と談し、かつ繪はがき等ものす。

妹と予と、月の明るさを幸として、田圃の路を辿りて散策す。

あゝいつもながら斎藤家、家庭の暖かなる、實に感嘆の外なく、まれに行く我さへ、いたくその温風に浴して、一種いふべからざるものあり。

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明治四十年(1907年)六月廿日 木曜

晴。

起居身體 午前六時起床、午後十時就褥す。

見聞行事交際 受講三時間、午後二時半閉會式。受講證明書を授與せられ、講師慰勞の茶菓會開かる。此席上にて音樂演奏及び講話あり、頗る盛んなり。午後五時出發歸校す。

妹より封書、十二日附。予の十二日の書によりて、歸省しぬと。尚、病状の知らせ、及び母上はいたく案ぜられたりしも、歸省して病の實際を話したるに、いとゞ安堵せられぬなどの事。

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明治四十年(1907年)六月十四日 金曜

午前雨、午後やゝはる。

起居身體 午前六時起床、午後十一時就褥す。

見聞行事交際 午前七時より十時まで、過日、古志郡壯丁徴兵檢査の役員を囑託せられたる爲、壯丁の學力檢査をなす。本日は白石侍従武官第二師團長、第十五師團長等の臨場あり。午前十一時より午後四時半まで講習を廳く。

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明治四十年(1907年)六月十一日 火曜

雨、愈梅雨に入る。

起居身體 午前七時起床、午後十二時就褥。

見聞行事交際 午前九時、本日より十一日間、女子師範學校内にて開かるゝ、縣及び縣教育會主催たる教授法講習に出席す。會は午後一時開會式を擧げ、續いて二時間算術科教授法の講和あり。千代子妹に遇ふ。眼疾既に瘉えたれど、耳鼻と腦よろしからず、父君案ぜられて歸省療養せよとのこと故、それと決したる處、また母君より來書あり、内科とは何病なりや、つまびらかに知らせよ、もしやあやしき譯よりの病にはあらざるかとの事、これにて歸省はいたく苦痛と思うふ。歸省するも母君よりかゝる事きびしく問はるゝはいとも心うし、さる事つゆなきものなるを。さて歸省は如何せばよきか、ご意見の程きかせてよとの書を渡さる。よって之に對し歸省すべし、歸省の上、母君には、くはしく安んじ給ふ様、答を申上げ、心安く病を養うべしとの返書をやる。

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明治四十年(1907年)六月十日 月曜

快晴。

起居身體 朝方寒さを覺え、目覺たるに蚊におそはれたれば起床す。時に四時。午後十時二十分就褥す。

見聞行事交際 本日より二週間、春季産業季休業。豫て彫改を命じたる予が、佐々木丈二、水邨人記〔上、白字、下、朱字、篆書、一寸五分角〕の印、出来したるを後藤氏より落掌す。之と共に同氏より三月揮毫し、其後遣したる山水圖の謝禮、一成堂贈呈分を受納す。其金壹圓なり。壹圓とは人を侮りたるものにあらずや。予は決して額の多きを敢而希ふにあらざれども、而も特密畫との依頼に對し、また彼が身分としては甚だ不當のもの、是、予を侮蔑したるものか、はた全く美術の眞價を知らざるものか。

本日立見屋より、夏絽羽織地〔拾貳圓八十錢〕を買ひ仕立方を注文す。

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明治四十年(1907年)六月九日 日曜

快晴。

起居身體 午前六時起床、午後十一時就褥す。

見聞行事交際 午前紙本二枚に各山水〔一は五月雨、一は波の響〕圖を揮毫し、午後三笑會に出席す。渡船待ちし、かつ長岡市中にて用を辧したる爲、出席したる時は午後四時。會には會員の特別製作出品あり、成績はあまり佳ならず。五十嵐、永井君例によりて頗る吹くなり。唐紙畫帖等に揮毫をなし、散會したるは午後七時なり。

爲二弟方を訪ひしも留守なれば、一石君方に泊り、夕食後、畫談數刻の後臥す。細君の妹子ヒステリーなりとて某醫の催眠施術を受けらる。

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明治四十年(1907年)五月卅日 木曜

雨ふりかつ晴。

起居身體 午前六時廿分起床、午後十時就褥。

見聞行事交際 課業三時間の後、舎内運動場に於て、中西訓導、陸軍六週間現役兵として、歩兵第十六聯隊へ入營の爲、本日出發につき歡送式を擧げ、零時四十分、尋常三學年以上を引率して、槇下まで送る。こゝにて生徒總代の外は歸らしめ、職員一同及び生徒總代は長岡停車場まで送る。

東京宗吾兄上より、予の問合せに對する返書、廿七日附なるが到着す。其要に曰く、重義弟は意外の鈍物にて、到底此分にては他人の手に使はしむるは望みなく、また使ふ人もなかるべし。其聲また泣聲なるには、いとゞ困ずる所、こは矯正の見込なしと思はる。しかれども正直に頗る勉勵しをる故、今暫くの後、何とかの教育法を講ぜん考なり、と。

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明治四十年(1907年)五月十八日 土曜

朝大雨あり、午前九時より霽れる。

起居身體 午前五時半起床、午後十時就褥す。

見聞行事交際 兒童等は午前四時頃より起床したるありて、四十五分頃には殆ど皆起き出づ。午前六時朝餐を終ふ。空かき曇り雨模様に見ゆるにより、出發をためらひ、かつ兒童の雨具として、油紙準備の爲時を遷し、八時小雨をついて發す。まもなく暴雨となりしも、さまで時を空費するにあらねば、行程を變更し地獄谷石油抗を見ざるに決して、小千谷より直に片貝に向ふ。進むこと里餘にして雨漸くはれたれば、一行大に勇気を增す。午前十一時二十分來迎寺に着し、同五十六分發下列車にて長岡に下車し、坂之上校にて晝食を喫し、小憩の後、商品陳列所を參觀し、次に電話交換局内部を觀て歸途に就く。風漸く強く河の水さへ增したれば、渡船は困難なりしも、一行事なく槇下に渡りつく。時に午後四時半、予は長岡にて校用二件を辧じたる爲、渡船の一回を遲れぬ。槇下よりの兒童も數名あればこゝにて解散す。予の歸校したるは五時半なり。

松田とき子君一人學校にゐ殘りて迎へらる。中西君は歸宅の用ありて、長岡停車場にて迎へらる予定なりしも、一行豫定を變更して一列車繰上げ歸りたればあはず。松田とき子君に予と渡辺君共同にて購ひ來りし片貝名産、衣かやの少量を饗す。我一行、商品陳列所参觀の際、千代子妹尋ね來る。

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明治四十年(1907年)五月十七日 金曜

朝薄曇、九時前より風聲沙塵飛散する事甚だし、午後三時過より點々たる雨ふる〔春季修學旅行〕。

起居身體 午前四時半起床、北魚沼郡小千谷町鱗屋にて午後九時二十分就褥す。

見聞行事交際 豫て計畫したる春季修學旅行として、高等科男子廿一名女子十七名を渡辺訓導と共に、監督引率して、午前五時四十五分、芹川校を出發し小千谷に向ふ。學務委員近藤榮五郎君同行せらる。即ち一行四十一名なり。

先づ槇下渡を越え長岡停車場に至り、八時二十分發上列車に乗じて來迎寺驛に下車し、片貝を經て小千谷町に泊す。中西訓導、尋常三四年及び高等科兒童の小千谷に加わらざるもの、計四十二名を引率して片貝に向ふもの、我行と共に進む。

長岡發に際し乗車せんとするや、驛長曰く、乗客非常に多數なるに、今日は而も押切より若干名、當驛より附屬小學生約五十名、また宮内よりも若干名の生徒、乗車の約あれば、到底貴校の一行を乗せしめる事、能はずと。然れども強ひて乗車の承諾を請ふる事三回の後、辛うじて客車を増して乗るを諾せられたり。

來迎寺より南片貝へ向うて進む事數丁にして、風起り沙塵煙の如く飛散し、殆ど眼を開くに堪へざる程なりしも、一行勇しく進みて、片貝に至り、大塚益朗氏の庭園を一覽す。時に十時過。此間に於て兒童は停車場、汽車、鐵橋、馬車を見る。大塚氏門前にて中西君一行と別れ、我行は南行す。中西君一行は片貝小學校にて晝食を喫し、午後二時五十五分來迎寺發の汽車にて、歸校の途につく豫定なり。

大塚氏を去る時、福島政次郎いたく疲勞を覺えて眼を閉じ、顔色生氣なく殆ど歩行に堪へざるものゝ如し。是れ家を發する際、遲刻をおそれて朝食を喫せざりしものなりと言ふ。よって喫飯を勸むれども彼肯ぜず、今暫く忍ぶべしと言ふ。是より進むこと半里餘、千田村の或一軒家に近づく頃、福島また弱り全くえ行けず。今井惣吉等、どう馬してこれをのせ、福島大將など評しあひつゝ一軒家まで連す。水の清否を質したるに、浄しとの答なりければ、こゝに喫飯する事とし、其家の南側杉叢中に沙塵を避けて之を認む。時に十一時半なり。小憩の後小千谷に向て進み、零時五十分小千谷に着し、明石堂、魚沼神社に詣で、小千谷尋常小學校に立寄りて一休みし、池茂機工場をみて、船岡山なる英靈を弔い、午後三時五十分鱗屋川上重藏宿に投ず。

夕食後、觀察事項につき補ひ、九時二十分就褥す。初めて旅宿に、而も多勢ともに臥すものなれば、稍興に乗じて騒がしきものありしも、疲勞したる爲、間もなく就眠す。

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明治四十年(1907年)五月十六日 木曜

快晴。

起居身體 午前七時起床、午後十時就褥す。

見聞行事交際 午前一時前、長岡後藤主人來り、兒童用帽章、昨午後十時出來したりとておくり届く。こは本日午前八時迄の約なりしも、職人潔清法施行の爲、つひにこゝに遲延したりと。後藤氏の忠なる、頗る感ずべきなり。同氏一睡の後、予等と共に起き、朝食を喫し九時辭し去る。

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明治四十年(1907年)五月十五日 水曜

快晴。産土神祭に付休業。

起居身體 午前六時起床、午後十二時就褥。

見聞行事交際 午前九時芹川近藤榮五郎君方に、村社々掌を訪ひ、兒童引率參拝の式次作法につき協議す。其式次作法は次の如く決す。

祭式中、職員兒童を引率して社前に至る。祭主之を祓ふ。學校長進で玉串を捧ぐると同時に、首席以下教員及び兒童最敬禮をなす。

零時出發村社に參拝し、豫定の式終り、社前を去り神菓を兒童に頒ち、こゝにて解散す。午後一時過なり。

本日石井仙太、石井作五郎、近藤六郎、青木四郎吉の四君より赤飯一重づつをおくらる。中西君よりは煮〆をそへて。朝、中山巡査細君、娘を連れて來訪、まきたばこ七箇をおくらる。

夕食後午後九時より中西君と共に、芹川神樂を見る。おもしろし。十一時歸校す。倫理講演集到着す。

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明治四十年(1907年)五月十三日 月曜

風雨と晴。

起居身體 午前六時起床、午後十時廿分就褥。

見聞行事交際 昨夜、鼠の爲に冬服上着の右ポケット外を喰ひ破られ、臨時に開襟服を着し、校用にて長岡へ行く校丁に託して修繕方を命ず。校丁長岡より學校用大算盤、窓掛等を持參す。脇川新田向島神明社獻納の旗二向の揮毫を委囑せられ、午後五時頃書き終る。之が使として金子彦藏老、和田富五郎の兩人來り、墨の用意、地質摩擦等をなす。揮毫に先立ち彼等は御神酒と稱し、酒一升、菓子一鉢を調ふ。一傾一喫の後、揮毫し終って、また予と中西君とは菓子を喫す。

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明治四十年(1907年)五月十二日 日曜

午前曇、午後風雨。

起居身體 午前六時半起床、歸校、午後。

見聞行事交際 重義弟午前八時廿分長岡上り上野直通の列車にて立つを見送る。兄上、宗吾兄上、甚五郎弟、阿部君への土産を託す。

妹よりの我校生徒長岡へ旅行するを、日々待ちゐるとの書到着す。

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明治四十年(1907年)五月九日 木曜

晴。

起居身體 午前六時十分前起床、午後九時四十分就褥す。

見聞行事交際 本日教員住宅敷地、石かちをはる。其序に前庭窪地へ土を上置す。樋口虎吉君、川袋校を辭して長岡市役所書記に就職すとて、來訪し別れを告ぐ。よって君の爲茶話會を開き送別の意を表す。

在京兄上、宗吾兄上へ重義弟上京の件を報ず。爲二弟へも報じ、兼ねて十一日貴方へ、同人及び母上一泊がけに押しかけ給ふもあらんとの意を申送る。

當地方昨今、鯉魚の漁、豐かなれば、本日之を一貫目餘購入して、夕食の膳にて其美を賞す。

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明治四十年(1907年)五月七日 火曜

雨、信濃川大洪水。

起居身體 午前六時十分起床、歸宅午後。

見聞行事交際 桜井赤城君より來書あり。過日來の左腕腫物を癒せず、同腕全く不随意にて、治療するも容易に快瘉の見込もなければ、已むを得ず京都出發、東都に出でて、名醫の診療を受けたり。然れども京都大學醫の見立と同一なりし故、博覧會等一覽の上、去月十九日歸國したりとの報あり。いとゞ遺憾のことゞもなり。

重義弟の件につき母上、姉上と協議すべく、午後六時半學校出發歸宅す。母上、姉上と協議したる結果は次の如し。

重義弟を本月十二日上京せしむ。衣類は反物のまゝ持參せしめ、夜具は持參せしめず。

今夜尼二名泊り、夕食後讀經をなす。かれらの本意、果して眞に佛に歸依しゐるものか。

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明治四十年(1907年)五月四日 土曜

快晴。

起居身體 午前六時半起床、午後十時就褥。

見聞行事交際 本日午前藤井屋主人請負にて校の玄關前なる松樹を、南方教員住宅前へ移植す。午後一時より高等科及び尋常科の體力優等兒童を使役して、前庭圍堤を修繕し庭内の窪地へ土を搬ぶ。但し高等科女子は花畑草取の任に當らしむ。五時廿五分豫定の工事を終へ解散せしむ。職員慰勞として菓子を、校丁にも手傳はしめたれば其慰勞として酒一合餘を供す。兒童へ菓子等を分與するは教育的ならざる感あれば、遊戯道具を新調して與ふる事とす。

東京兄上より、重義弟に關しての細書の趣了承、愈御意見の如く決したれば、至急宗吾方へ遣はす様取計らはれたしとの來書あり。

校丁に對し小使心得を説明し、實施の旨を言ひわたす。

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明治四十年(1907年)四月廿六日 金曜

晴、暖氣とみに増し、氣温七十度を示す。

起居身體 午前六時十分起床、脇川にて午後十一時就褥す。

見聞行事交際 全校兒童を引率して、川袋校迄遠足し、零時五十分歸校す。一行に異常なし。午後は休業す。校務整理の後脇川に歸る。重義弟の前途問題につき母上と協議せん爲なり。母上は本月十日過荒巻へ行き給ひしが、本日歸宅し給ふと聞きて歸りしに、十七日に歸宅、毎日予の歸宅を待ちゐ給ひしと。母上と協議の結果は、本月五日の立案と同一なり。母上の重義弟が前途に對する憂慮、察するに堪へず。

本日歸宅の序に川袋校に立寄り、庭球をなし、また阿部君を訪れて上京歸國の見舞をなす。

舊臘中、妹の血統不純なりとの説をなしたる者ありて、木村叔父君より、服部八十八君に依頼して、探究し呉れられしに、全く無根なり。純潔なりとの事判明したる旨、報ありしを母上より傳へらる。あゝうれし。

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明治四十年(1907年)四月十九日 金曜

晴。風あり沙塵まひ立つ。

起居身體 午前六時半起床、午後十時就褥す。

見聞行事交際 午前十時過、古志郡役所書記岩田君、視學の代理として來校せられて、我芹川校成績現況を取調べらる。

脇川より使來り、飯米一斗と野菜、阿部大人の預かり來られし宗吾兄上よりの手紙と牛罐小一箇と淺草海苔一把、阿部謹三郎君よりの繪はがき三枚とをおくり届く。

午後學籍整理を終へて後、職員四名にて庭球會を開く。こは今年の初會なり。

所感 一昨年の今日は病後の衰弱ありて、身體の健康尚舊に復せざるを、つとめて歸校し、午後はげしき瘧にかゝり、妹と山本かづ子との看護を受けたりし日なり。

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明治四十年(1907年)四月十六日 火曜

大雨。

起居身體 午前六時四十分起床、午後九時半就褥。

見聞行事交際 午前脇川より使來り、米と赤飯及び煮〆とをおくりたまはる。本日は我脇川新田村社祭なれど、天候よからず、かつは明日教員協議會もあり、校務多忙なれば歸宅せざるなり。十六聯隊内近藤泰次郎君、高橋君よりはがき状來る。

脇川の使、次の二書をおくり届く。こは一昨日歸國せられし阿部大人夫妻が、東京より預り來呉れ給ひしものなるべし。

兄上より要に曰く、重義弟前途の方針については、宗吾殿、甚五郎殿とも協議したるに、

一、今宗吾殿方へ送りて店員として召使ふも、彼が前途の目的、八百屋店にあらずとせば、既に年齢も相應に長じをる事なれば、不利なる點あらん。何となれば遠からず徴兵に當るべく、さすれば愈前途の目的に進むに於て、中途に時を徒費する事とならん。

一、故に速に理髪業者か西洋洗濯業者たらしむる目的を立て、其の方へ弟子入りなさしむる方、可ならん。

一、しかし同弟は勉學の功を積みて尋常科正教員となる見込ありや。若し之あらば、阿弟許〔予が事〕にて之を教育し、一年講習科へ入學せしむる方針をとらしめたし。東京三者の意見は以上の三者なり。然れども同弟一生の大事なれば、尚熟考すべからんも、阿弟は篤と母上と協議の上、其意見を定められたし。

上の提案、予の提案を未だ了解なくてのものならざるか。

長岡女子師範學校三二學年生有志は、本日博覽會觀覽の爲、直通にて上京の途に上れりと。妹は一行に加はりしか如何に。

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明治四十年(1907年)四月十一日 木曜

雨ふり風ふく。

起居身體 午前七時起床、午後九時半就褥。

見聞行事交際 次の書到着す。

兄上より、重義弟は同情に堪へざる事ながら、退學せしむる方、むしろ策の得たるものならん。尚其前途の方針については、宗吾、甚五郎兩君とも協議の上、意見を申送るべしと。九日附。

千代子妹より。去ぬる七日來訪の禮、女子師範にては今後、書翰の往復及び來訪者の姓名を帳簿に記載する事となり、尚今後は書翰の往復を成るべく減ぜよと申渡さると。御談しの人の斡旋を諾して、女子師範嘱託教師となり給ふとの事は、或は成功するやもしれず、然れども、こは望ましからず、何となれば當師範生徒は一體に教師に對して不從順なれば、必ず其心慊らざるべければなりと、此書さく子君への分と同封にて、九日附。

夜業に教授案を編製す。

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明治四十年(1907年)四月九日 火曜

快晴。

起居身體 午前七時十分起床、午後十時就褥。

見聞行事交際 兒童と獨楽をうちあはせ愉快に遊ぶ。自習、大學研究。

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