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2009年4月

明治四十年(1907年)一月廿四日 木曜

雨ふりまたはれる。校庭雪の消えうせたる所廣し。

起居身體 午前七時四十分起床、午後十時就褥、風邪の氣味あり。こは昨夜寒さを耐へて、習字にふけりし爲なるべし。

見聞行事交際 本日より兒童用入口外圍戸の錠占を廢す。こはもう盗人侵入の患なければなり。さきに兒童所有品を竊取したりしもの、とらはれて罪せられたり。そは大字芹川の住人平田三次といふものなりき。自習、習字。

南宋畫家田能村直人翁、本月廿一日逝去、行年九十四との記事新聞に見ゆ。

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明治四十年(1907年)一月廿三日 水曜

晴、夕雨。

起居身體 午前六時四十分起床、午後十時半就褥。身體よし。

見聞行事交際 放課後、職員會を開き、校務につき協議し、終って後新年會として、白玉團子の晩餐を認め、まはり將棋をなし、六時半散會す。午後竹内敬吉氏來り、金員借用の請求ありしにより、金四拾圓を渡す。こは來る廿六日證文を受取る約なり。竹内氏、母上より予へたまはりし、飯米二斗と大根等をおひ來り呉る。

中頸城郡高城村にをらるゝ藤田三郎君より來書あり。其要に、君はまだ無妻の様なるが、予が知己たる長岡の人へ、婿養子に周旋せんとす。君如何。妻となるべきは、高等女學校卒業生にして、結婚の曉は分家せしむるものなれば、所謂、婿づとめは無用なり。

若し他へ入籍するも障りなきか、否、至急回報あれ。餘は一切、何卒予を信頼して此言をきゝたまへ。さはいへ愈契約締結の場合とならば、目的物につきては、充分に探査も然るべしと。予は之に對し、六菖十菊の嘆、如何ともしがたければ、との返事を認む。尚、藤田君書中に、金など目をくるゝは丈夫の本領にあらねど、分家のをりは、萬位は分與せらるゝものとあり。

所感 予はもとより現在の身にありては、此提議を承認する資格を失へるものなり。されど、たとへ今其資格ありとしても、他人の財産を勞せずして、之によりて安逸を貪るは、予の斷じて潔しとせざる所なれば、こは全然應じがたき事なり。

追記 本月廿二日、逓信省に出火ありとの記事、新聞に見ゆ。

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明治四十年(1907年)一月廿日 日曜

曇。

起居身體 午前八時十分起床、雲外寺に滞在、午後十二時就褥す。

見聞行事交際 終日こゝにありて、文學雑誌を讀む。祐天君は寺役の爲、朝と夜とにて約三時間外出せられたり。昨年初冬、雲外寺老僧の依囑によりて揮毫したりし襖畫、老梅圖を修正す。夜祐天君、夜學に出勤の暇に、千代子妹へやるべき慰問状を認む。讀みかけし書は、中途たゆまず讀みをふべきものなりといふことを。

 ふた日とも さかりたもたぬ山櫻

  めづるは今日を かぎりとぞおもへ

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明治四十年(1907年)一月十九日 土曜

曇り。

起居身體 午前七時四十分起床、上川西村大字宮關、雲外寺へ年禮に行き、そこにて午後十一時就褥す。昨夜よふかしゝたるに、また本日雪道を急ぎ歩きし爲、疲勞を覺ゆ。

見聞行事交際 午前九時前大字芹川、青木徳藏方出火して、本家燒失し、十時鎭火す。これ味噲煮を焚きたる消炭の不始末より起りしものにて、是より十年前、一回火災にかゝりしものなりと。いとも不憫のことにこそ。之により予は職員總代として、火起るや直に驅けつけて、現状を視察し、課業は三十分遲れて始め、正規の三時を終ふ。青木徳藏の男、海一〔尋常三年〕一應歸しやりしに、同人まもなく又來校し業を受く。

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明治四十年(1907年)一月十四日 月曜

晴、寒氣甚しく硯水氷結す。午後三時過より日蝕あり。かけながら入りしも曇りてわかず。教室寒暖計華氏廿六度、但し朝のま。

起居身體 午前八時起床、午後十一時就褥す。

見聞行事交際 千代子妹より渡辺さく子君への書に同封にて、次の要領なる書状來る。

 私、歸校の時、友人がおめでたうといひました。これは地方の人がはがきにて友人へ申越したるさうなのです。これを以てみれば、もう兩人間の契約を人は知ってをり、長岡村上屋も知ってをるらん。手紙は三月末迄、村上屋の手を經て下さる様に願ひます、と。

東京河野安藏君よりの年賀状到着す。うるはしき羊の繪はがきにて。渡辺わか子、松田とき子の兩君より年玉として、紺足袋一足づつをおくらる。午後七時過、芹川駐在川口巡査來校し、舊臘六日當校にて鈴木房子の廻合羽盗難にかゝりし事、届けありしが、その竊盗發覺したれば、盗難届を差出さるべしとの請求あり。之に對し其示されしまゝの手續を濟ます。

自習、老子評釋をよむ。それと習字。今日郡役所より、學校兒童貯金調を來廿日迄に差出すべしとの通牒到達す。

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明治四十年(1907年)一月十二日 土曜

晴。但し風あり。

起居身體 午前八時十分起床、午後十一時二十分就褥。

見聞行事交際 放課後、舊臘長岡の後藤氏依囑の繪はがきを揮毫す。其數五拾八枚。

去る十一日本縣知事阿部浩氏、依願免官となり、和歌山縣知事清棲家政氏、其後任たる旨、本日新紙にみえたり。

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明治四十年(1907年)一月十一日 金曜

雪ふり風ふく、交通とだえたる地もあり。

起居身體 午前七時四十分起床、翌一時就褥。

見聞行事交際 午後二時高橋君宅より使來り、野菜等持参す。こは同君の病状をきゝたゞすべく、同君父母の君より遣はされしものなり。親心いともたうとし。

夕食後、渡辺勇一君方へ行き、年禮として三盆一斤を進じ、沐浴の後、家族合せして十一時半迄あそぶ。歸校の折は道、吹雪に塡められて頗るなやみたり。

昨日着の三浦君の書に對し和歌書跡二葉をとゝのへ、履歴書にそへて發送す。

昨夜、槇下の人、同村と槇山間の堤防上にて凍死したりと。

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明治四十年(1907年)一月十日 木曜

雪ふり風あり、現下積雪約一尺七寸。

起居身體 午前七時二十分起床、午後十二時就褥。

見聞行事交際 新潟中田兵吉君より年賀状、三浦小一君より年賀状をかね、次の要領の書來る。去ぬる六日歸港〔同君は東京高等師範の冬季講習に出席したるもの〕直に其夜と七日、八日夜、久保田縣屬〔縣内學務職の中等學校の係〕を訪問し、君が圖畫教員志望なれば新設巻中學か、佐渡高等女學校の同教師嘱託として、採用ありたき様にと陳したりしに、同屬曰く、諾せり、巻中學へ周旋せん〔月俸二十五圓か二十七圓にて〕速に本人の履歴書二通と、平假名交りの歌をものしたる書跡二葉とりよせあるべしと。依而至急同二種發送あるべし、即ち圖畫と書字との教師に周旋せらるべしとの事なり、好機逸すべからず、しかし予が性急なる、或は君の謙譲を傷ひしやもはかられざるも、事既にこゝに至れり、枉げて了承あれと。これにより夕食後履歴書を認めぬ。和歌二葉を揮毫したるも、假名は練習誠に不充分のことゝて意にみたず、練習に數葉を揮毫して十二時に至る。

所感 世事、意と違ふはこれ人生の常か、予は圖畫教員として中等教育に從事するも、今宵その技術に於て、自ら省みれば躊躇せざるを得ず。然るを之に書字の擔任を兼ぬるに於てをや、さはれ時に臨んで、むげにひるみおちて進まざるは、自ら好機を逸し、幸運を打却するものなるべし。其結果の如何は姑くとはず、進むべき時に進みゝんのみ。予はこの意もて書跡の所望に對しても、敢而辭せず、之に應ずる事に決しぬ。

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明治四十年(1907年)一月九日 水曜

雪ふり風ふく。

起居身體 午前七時四十分起床、午後十一時就褥。その前約二時間炬燵にて眠る。

見聞行事交際 本日より正規の授業をなす。但し嚴寒につき、昨年末に引續き、午前九時始業、午後一時五十分終業、即ち四十分課業十五分休憩、晝食時間四十五分間なり。

彦藏老人は午前十一時四十分歸宅す。

本日年賀状、東京の林先生、静岡の東香樹君、長岡の浜田師より來り、千代子妹より六日附にて、予が將來の希望には賛成なり、ついては上京修學の際、學資不足とあらば、其中五圓位づつは、妾卒業後おゝくりすべければ、御案じなき様、御進みなさるべし。さてまた、たとへ嘱託なりとも、將來の希望成就の便となる事あらば、よき機會あらば、中學若くは高等女學校なりと就職なさるべし、との要領なる書來る。その心根いとも床し。

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明治四十年(1907年)一月八日 火曜

風雨。

起居身體 午前八時起床、新年振舞にて教職員四名と、渡辺國手を招き、食後遊びて午後十二時過就褥す。

見聞行事交際 午前九時過校内整理の後、始業式を舉行、兒童に筆初をなさしめて解散す。時に午前十一時半なり。始業式における予が校長としての誨告の要領次の如し。

 本日は明治四十年に於ける始業の日なり。何事も必ず其の初に於て豫定を充分に決定しおけば、成績良好なるものなり。即ち一年の事業は元旦に豫定するが如く、學校に於ける業務に關しては、本日よりこの考なかるべからず。さて諸子の學校及び家庭に於てなすべき事、一々たゞ教師の命を守りて、學問をはげみ、品行を愼むにあるのみ。然れども其成績の如何は、各自の勉勵の差異によりて甚しき徑庭を生じ、或者は落第、或者は成績佳良にして及第に至るべし。これこの相違は同じく教師の教を受け、同じき時間を學校に生活したるものなるに、たゞ其覺悟と、勉力の多少によりて生ずるものなるべし。故に諸子は之を思ひて、今よりはげみいそしむべし。而も一年の齢、長じて尚、舊の心にてはこれ進歩せざる人なるをや。

今日は職員と渡辺國手夫婦及びさく子君、石川祐天君を招きしも、渡辺夫人と石川君とは來られず、さく子君は其任校、川袋校にも新年宴會ありしとて、七時過來訪ありき。本日朝、彦藏老人、餅其他の食糧を運び來り、かつ之が調理の任に當りくれ、午後五時過會食を終ふ。食後、家族合せ、國旗合せ、うたかるた等して十一時半解散す。彦藏老人、校丁に殘物を振舞ひ、尚祝酒四合を與ふ。彦藏老人は泊る。

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明治四十年(1907年)一月七日 月曜

晴。

起居身體 午前八時半起床、歸校して午後十一時就褥す。

見聞行事交際 午前十一時過、爲二弟家を辭して、前田繁之助君へ年賀の禮を盡し、次に一石君に年賀禮をなし、共に岡田師を訪ひ年禮を盡す。師より酒及び生そばの饗を應け、それより村上屋書店に行き、歸装をとゝのへ五時半出發して歸校す。

所感 數日間たゞ一人にて居し事なかりしに、今日この學校に來り六畳の一室にゐる、いとさびしう感じ、特に妹が上ぞ、したはしき。

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明治四十年(1907年)一月六日 日曜

午前晴、午後雨。

起居身體 午前八時半起床、長岡爲二弟方に泊り、午後十時就褥。

見聞行事交際 午前は實家。午後二時迄、母上に對し姉上との仲合を睦まじくしたまはるべき様、諫言し、二時半出發長岡に來り、爲二弟へ年禮を盡す。實家よりの産見舞金拾壹圓卅錢〔卅錢は弟家の雇人への分、壹圓は反物料〕と予よりの分、みかん拾五とを進ず。ちい子及び生兒敏夫兩人とも無事なり。

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明治四十年(1907年)一月五日 土曜

快晴。

起居身體 午前九時起床、脇川に歸り午後八時過就褥す。

見聞行事交際 午後二時迄、妹がりにて讀書し、談話し、三時出發歸途につき、芹川校に立寄り、書状其他必要品をとりまとめ、午後六時二十分歸宅す。落掌したる賀状數通。

所感 一昨夜、昨夜は妹子と親しくものがたりせしが、こよひはならず、いとさびし、妹子もまた此感あるべし。

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明治四十年(1907年)一月三日 木曜 元始祭

午前午後風吹き雪、霙ふる。

起居身體 午前七時半起床、七日市千代子妹がりにて翌一時就褥。

見聞行事交際 午後二時迄、阿部大人と談ず。大人は其後辭し去られ、これと共に姉上、栄、虎雄兩人また李崎に行かる。午後二時廿分出發、与板に出で、斎藤家に進ずる贈物を購入し、木村、鈴木二三郎の兩家の對して年始の禮をのべ、四時十分与板を發し、風雪をおかして、千代子妹がりに至る。五時四十分着。この時、妹始め父母の君たちも風雪の為、予は訪を中止したりしならんと思ひなしゐられしとなり。六時半大人は夜學生教授の爲、出席し給ひ、十時歸宅、十一時過褥に入り給ふ。この夜學へ出勤の間、及び十一時過より一時半迄、妹は予が接待に當りたれば、相互にしめやかにかたる。妹へ繪はがき拾一枚と、かの手袋、頸巻をあみくれし禮として、はんけち貳枚とを進ず。

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明治四十年(1907年)一月二日 水曜

昨夜雪降り、朝の眺めいとおもしろし、晴。

起居身體 午前七時起床、昨夜より褥中に母上の世間ものがたりをきゝ二時に至る。身體異常なし。疲勞大方いゆ。

見聞行事交際 午前午後とも繪はがきをものし、昨日發信せざりし人々への年賀状を認め、重義弟の与板へ行くに託す。尚明日千代子妹へ進ずべき、特に念をこめたる繪はがき十餘枚をものす。姉上は与板へ買物に行き、午後四時過歸らる。夕食に李崎、阿部吉藏大人を招く。これ新年の祝酒を呈するもの、所謂年始振舞なり。大人午後五時過入來、夕食にきそばを饗す。夜、橋本源次來遊し、九時過まで談じて歸る。

夕食後來年度の日誌を綴り、一日よりのを認む。これ數日前より多忙にて調製の暇を得ざりしなり。

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明治四十年(1907年)一月一日 火曜 四方拝

明治四十年(一九〇七年) 紀元二千五百六十七年

成功の祕訣は目的の一定不變なるにあり

舊臘ふりつもりし雪積れるもの尺許。今朝の初日うけ、まばゆかりしが、後、曇り午後雨となる。

起居身體 午前六時五十分起床、午後十一時半就褥。身體とりたて、の異常はなけれども、舊臘休日に繪畫揮毫につとめたりし疲勞、尚いえず、午後二時間許炬燵にて眠る。

見聞行事交際 午前八時半自宅出發、學校に行き、十時より四方拝奉賀式を舉行し、十一時終り、祝宴を開き、一同午後二時半解散す。四方拝式場に於て、校長として予がなしたる誨告の要旨次の如し。

本年は明治四十年、昨日を以て卅九年は終れり。卅九年はその前年日露戦争もをへ、農作もよくみのり、御同様いとも安けく暮し、心長閑に本分を盡すを得たりき。さて本年もこれに劣らず、幸福に年を終へん事を祈るわけなり。抑、人間は天地間に生じ、自然の規則に支配せられつゝあるものなれば、この天然自然の法によりて起る現象は、到底吾人の如何ともする能はざるものなり。之と相似て人事上に於ても萬事意の如くならしむる事能はざるは、人生の常たり。故に之等意の如くならざるものは、ならざるものと、よくゝゝ悟りなば、人間にはさほどの不平なく心常に泰なり。而して吾人が意の如くなし得るものは、吾人の心、吾人の行爲なり。もとより難きことゝは言ひながら、各人つとむれば、其意を達し得べけん。學校はこの心性を正し、行爲を矯すを大目的となす。されば特にこの方面に對して努力せざるべからず。即ち彼をすて、之に努めば、不平はなく、たゞ善に進む事のみにして、快からん。さすれば年の四十の音に似かよへる如く、始終今年を安く暮し、うれしく過すを得ん。この心もて、心愉快に今年の始終をおくらんかな。

本日の式より兩陛下の御影〔御眞影にあらず〕を安置し、從て式次に多少の變更を加ふ。

本年の御歌題 新年の松

 たけたかき門の大松色はえて 光まばゆき初日影かな

 つぎゝゝに枝さしのべていやさかえ 鶴をすくはす峯の大松

所感 本年は何事をかすべき、本誌題字に書せるが如く、一定不變たる上は、たゞ之に向て奮進するのみなるべし。あゝ奮進、あゝ邁往。

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明治三十九年(1906年)十二月卅一日 月曜

雪。

起居身體 午前七時起床、朝餐を辭して直に歸校し、午後四時過歸宅。十時半就褥。

行事交際 午前と午後二時迄畫を揮毫、こゝに始めて渡辺君依頼の鶴圖を成功す。それより年賀状を認めて午後四時に至る。はや眼疲れくらみて筆もよくはしらねば、蒼惶装をとゝのへて歸宅す。

予は廿七日頃歸宅すべき様、母上、姉上へ申送りおきしものから、いたく待ちわびゐ給ひ、重義弟はさびしがりて、これまた予の歸るを待ちあぐみゐたりと。

午後六時、母上、姉上、重義弟、榮、虎雄兩甥と共に年をとる。食後年賀状を認む。廿六日附にて千代子妹よりの書來てあり。其要は予が一人して六畳の學校宿直室にこもりゐるは、いたくさびしき事ならむとおもひやり、慰めくれたる言葉、及び昨年の今頃は、いたく悔しき事のみ、おもひくらしゐたりしが、今年はそれもうちかはり、何のうらみもなくいとゝゝ心うれしく暮すなり。來年一月三日の入來をいとゞ待ちまゐらす。一昨夜は父は學校の宿直にて、母と十二時迄かたらぬと。

昨年悔に暮しゝとは、とかく世評ありしをいふなるべし。

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明治三十九年(1906年)十二月卅日 日曜

雨、雪。

起居身體 午前七時起床、午後十二時、渡辺君方に泊りて寢る。

行事交際 午前午後昨日に引續き畫揮毫、夕食に渡辺君方忘年會に招かる。相客渡辺わか子君、料理は主人得意の洋食なりき。食後炬燵にて寫眞を見る。主人はみかん食ひすぎし爲に甚しき腹痛を感ぜられ、鎮痛劑を服せられしが、其量を過りしとて吐瀉し、後やがて就褥せらる。醫者の不養生とはよく言ひうがちしものかな。

甚五郎弟より交換文を送りこす。之に添へて繪畫講習録依頼により、一年分まとまりしを古本店にて買求めたれば、發送したりといひあり。

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明治三十九年(1906年)十二月廿九日 土曜

吹雪、雪降る事約尺。

起居身體 午前七時二十分起床、午後十時半就褥。

行事交際  午前午後夜とも畫揮毫。昨夜夢に千代子妹の來りて、いともよろこび、お泊りかとたづねしが、其後はや、わかずなれりしをみる。

 あひあうてうれしとばかりありしまに ゆめとはてぬることぞうたてき

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明治三十九年(1906年)十二月廿四日 月曜

雪ふる。

起居身體 午前八時起床、翌日午前二時過就褥す。

行事交際 本日は校務整理の爲に兒童は集めず、午後四時迄校務をとる。渡辺、松田兩君は午後一時出勤あり。これ兒童來らざれば、全く用なきものと誤解せられしによるなるべし。之につき其誤解たるを説明し、今後の注意を促す。午後五時半より職員一同と、予と高橋君と來賓たる渡辺國手とにて、宿直室に於て忘年會を開く。料理は牡丹餅にして、渡辺わか子、松田兩君は調理、會費は廿錢四厘たり。食後炬燵にて快談し、かつ予が寫眞數十枚を覽に供し、七時過より石川祐天君、すぎ子君の來り會せるを合して、百人一首かるた會を催し、翌日一時五十分閉會す。此の間かるた會を一時中止し、かねて企ておきし年賀文三十字以内〔詩歌、俳句はこれ以外〕の職員五名の作を發表選定す。

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明治三十九年(1906年)十二月廿三日 日曜

朝積雪約三寸を見、終日六花の繽紛或はたえ或はみえず。冬至なり。

起居身體 午前七時起床、午後十時半就褥す。

行事交際 三浦君八時廿分上り出發につき、停車場に之を送る。後、校用、私用二三を辨ず〔書籍雑誌代拂、歳暮禮〕。

爲二弟妻ちい妹、作夜男兒出産無事なり。依て午後見舞ひて祝ひ祝儀金壹圓、外に歳暮にメリヤス襯衣一枚、桃罐詰一箇を進ず。尚村上屋書店に長芋一束を進じ、午後一石君と共に岡田師へ歳暮禮として金壹圓づつ、二人共通してみかん一箱を呈す。こは毎年の例なり。歸校午後五時過。此日晝食は後藤氏に餡餅の饗を應く。校丁を長岡に遣し、學校備付兩陛下御畫像額を運搬せしめ、かつ忘年會食事材料を購入せしむ。

村上屋書店、予に歳暮として教育家日記一冊、手風呂敷一枚を贈る。安田指物店、硯箱一箇を贈る。今日市中にて千代子妹に會ふ。來月三日にはおまち申しをる故御出であれとの言葉にて、うれしき様子。村上屋より予が書籍等おくりし中に、千代子妹よりさく子君へ宛てたる品と、予への書とあり、其書中に來月三日はなほ人の來訪はげしかるべければ、やゝ落ちつかぬ心地もあるべからんも、其後となりては、休日も殘少なになりて又心せはしくもなるべければ豫定の三日に入來あれ、今より指をりてまちまをすとあり。

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明治三十九年(1906年)十二月廿二日 土曜

暴風ふき、まれに雨霰ふる。

起居身體 午前八時起床、長岡北村旅館にて、在新潟の三浦小一君と共に午後十一時就褥す。

行事交際 課業二時間限りとし、第三時は一月一日の式の演習をなし、尋で全兒童に對し、冬季休業中の心得を訓示し、校内大掃除の後解散せしむ。

本月廿日着の三浦君の書に從ひ、午後一時四十分出發し、風雨をついて辛くも信川を渡り、長岡に急ぎ行きて停車場にて三浦君を迎ふ。抑、出發すでにやゝ遲刻なりしに而も渡船は暴風の爲容易に出でず、郵便集配人の行くありて、始めて之と同船するを得たりしなれば、長岡新道後藤方に立寄りし頃、まさに停車汽笛の音響けり。之を聞くや全速力もて、停車場にかけつけ、發車に先立つ數分の時、辛くも三浦君の予を認めて、プラホームに向て進み來るを迎へ得たり。あゝ奇遇なるかな。これより三浦君は表町北村旅館に行き、予は公私の用を辯じたる後、同宿に宿り炬燵に相對し大に快談をなす。君は今回また高等師範内の冬季講習會へ出席の爲上京するものなり。談話の主たるもの、

一、各自現今の生活状態及び修養。

一、友人の動静。

一、新潟等の教育及び教員の状態。

一、將來の希望〔君は教育實際の方面に進む〕。

一、君は予を來學年度開校の巻中學か佐渡郡高等女學校の圖畫教師に、推薦周旋を歸國後試むべしと。

一、予は君が常程度を超ゆる迄無妻、無一文主義たるを批評忠告す。

所感 君が熱心の度、證賞すべきなり。予は其希望何れの方面にありや、何ぞそれその方面に關する研究、かれが如く熱心ならざるか。大に君の奮勵に鑑むべきなり。

友人とはたのしきものなり、あゝ君との談合。

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