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2009年2月

明治三十九年(1906年)十一月十三日 火曜

曇、やゝ寒冷うすらぐ。

起居身體 午前六時半起床、午後九時四十分就褥。

行事交際 藤田ひふ〔高等一學年〕父母共に北海道移住につき退學す。本日より秋季兒童身體檢査の結果によれる、兒童の眼疾治療を施し、重患者に對しては、明日より醫療を受くべく申渡す。落葉松、檜を校の前庭に植う。倫理講習集第五十來る。

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明治三十九年(1906年)十一月十一日 日曜

晴、久しぶりに好天氣、心地よさいと限りなし。

起居身體 午前七時起床、午後十時就褥。今日は久しぶりに運動したるにてか腕やむ。

行事交際 午前九時過藤田一石君と共に、岡田師を訪ひ、畫談一時間許の後、女子師範に行き、三名して約二時間テニスを爲す。晝食は一石君方の饗を受け、後藤氏に畫を渡し、村上屋に立寄り、午後六時前歸校す。此日岡田師より白雲紙廿枚をゆづり受け、村上屋より雜書三册を買ふ。曰く禪學講話、曰く修養と研究、曰く小説不如歸なり。

女子師範にて運動したる間は約二時間なりしも、千代子妹は見えず、今日案外の好天氣となりたれば、芹川方面へ散策したるかと思ひしに、後藤より村上屋に至る途中ふと邂逅す。

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明治三十九年(1906年)十一月六日 火曜

曇り、寒さ甚し。教室の障子を入れる。鋸山等かすかに白雪をいたゞく。

起居身體 午前七時起床、疲れたるにや眼覺まし時計の音を聞かず。午後十時寢る。

行事交際 渡辺醫師來られ一時間、兒童の體格檢査をなす。

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明治三十九年(1906年)十一月五日 月曜

雨、あられ。

起居身體 午前六時起床、午後九時半就褥。

行事交際 朝、天長節式場の装置を衰崩し、教室を整理して、正しき時間に始業す。

千代子妹の來書あり。昨年この頃の思ひ出の記事あり。かつ女子師範に於て、來る十日夜音樂演奏會あるべければ、來遊あれとの案内あり。此書に二片相つながれるやさしき楓の葉そへてあり。

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明治三十九年(1906年)十一月三日 土曜 天長節

朝晴模様にみえしが大風雨となる。

起居身體 午前七時起床、午後八時半就褥す。

行事交際 午前九時より奉賀式舉行、来賓は例によりて遲刻、式始まりて後來らるゝもの七ハ名にして、末席に列せらる。式後例により來賓に祝酒を呈す。

甚五郎弟より卅一日記稿、本月一日發の交換文來る。文は鹽原旅行記の一節なり。

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明治三十九年(1906年)十月廿八日 日曜

快晴。

起居身體 午前六時起床、爲二弟方にて午後九時就褥。

見聞行事交際 午前九時より午後五時十分前迄、會場にて會務をとる。本日の來觀者、二萬一千七百三人と注せられたり。夕食後爲二弟と宗教問題を論ず。

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明治三十九年(1906年)十月廿七日 土曜

晴。

起居身體 午前六時起床、午後九時過、爲二弟がりにて寢る。

見聞行事交際 午前九時より午後五時半迄、教育品展覧會場に出勤す。今日より愈開會。晴天なりし爲來會者多く、小學校生徒の團體として來りしもの廿八校、之に一般來會者を合すれば、約一萬に達したらんと思はれたり。我芹川校兒童も、さきの豫定の如く今日參觀す。來れるもの四十名、かく少なきは如何なるわけならん。今朝の空やゝ曇りて見えしによれるか。はた稲刈のせはしきによれるか。來觀者計一萬一千。

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明治三十九年(1906年)十月十七日 水曜 神嘗祭

午前と午後二時まで晴、以後雨。七時はれ後まゝ降る。

起居身體 午前七時起床、疲れを覺えたれば午後七時臥床し、九時半就眠す。

行事交際 終日繪はがき及び人より依頼の畫を揮毫す。

午前十時過千代子妹來り、午後一時渡辺君方へ行き、それより長岡に歸る。予が方にゐる間むつまじくかたる。妹に繪はがき五枚を進ず。妹は今宵いかなる思をしていぬるらむ。

今日のかたらひはいとへだてなかりき。いとうちとけてうれしかりき。妹に手袋を注文す。

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明治三十九年(1906年)十月十六日 火曜

快晴。

起居身體 午前六時十分起床、午後十時十分就褥す。

行事交際 午前渡辺すぎ子君來校せられ、罐詰一箇をおくらる。高橋君さつまいも一袋をおくらる。与板町鈴木藤三郎より、十四日届けし畫の禮状到着す。夕食後渡辺君より借りおきし解剖書、生理書、英語辭書を返し、一昨日請求ありし白雲紙二枚と燒墨一本とを進ず。池田實君、山内仁吉君へはがきを發す。放課後繪はがきをかく。今宵は空おだやかなり、明日は晴天か。さすれば千代子妹はうちよろこびて來るらん。

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明治三十九年(1906年)十月十二日 金曜

快晴。

起居身體 午前七時前起床、午後十時就褥す。脇川にて。

行事交際 午前九時兒童を引率して鮭網を見るべく槇下に行きしも、網引は今日は休業にて望を果さず、やむなく槇山校にまはり、こゝにて一休の後、十一時半歸校、午後一時間課業して解散せしむ。

放課後教育品展覧會出品物につき其細項を協議す。出品物は兒童成績品中、會規により書方、綴方、圖畫、裁縫の四種とし、成績整理の要項を協定す。其後五時出發、川袋校に立寄り、太田君と談ずる事一時間許の後歸宅し、飯米、味噌、香物等の請求をなし、かつ宗吾兄上の盗難を報告して、見舞金を送る事とす。金は自宅佐々木主人の財政より五圓、予より壹圓とす。尚此際、兄上受驗後の養生金として母上より壹圓、予より五拾錢を送る事とす。

本年秋収は案外豊なりとて母上悦び話さる。うれし。

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明治三十九年(1906年)十月十日 水曜

曇、照らず降らず、今日は我校の運動會、それにはよき日。

起居身體 午前七時前起床、午後十一時就褥す。高橋君泊る。

見聞行事交際 今日は我校々庭に於て秋季運動會を開く。午前九時開會の豫定なりしも、やゝおくれて九時半に始む。午前は運動遊戯十二種、午後は十八種にして、豫定の通りを結了し、閉會したるは午後五時、會場の始末をなして、慰勞茶菓會を開きたる頃は、既に日は全く暮れ、ランプの光をかれたり。運動の出来は總括すれば凡七點強歟。昨年の運動會の成績に比すれば頗る遜色あるを覺えて、いと殘念なり。こは運動具の不備なりしにあらず、運動具は大に村内有志の寄附によりて整備したりしも、主として練習不足の爲ならんか。來觀者は午前は稲刈せはしき爲に、學務委員外數名。午後は村内重立、青年、老若男女約二百名に上れり。これ又昨年に比して足らざる感あり。運動費は有志寄附による。尚、後藤吉助氏により賞品として尋常科綴方帳十六冊の寄附あり。接待部に於て來賓饗應の菓子壹圓を買ふ。大部は職員の慰勞部に入りぬ、これ來賓少なかりし爲にてなり。午前十一時後藤吉助氏、昨朝注文の運動帽を持參す。

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明治三十九年(1906年)十月九日 火曜

曇、午前四五時頃雷鳴り、暴雨降る。

起居身體 午前七時起床、午後九時半就褥。

行事交際 放課後、明日の運動會の準備をなし、午後六時に至る。教課は一時間の外、遊戯演習。千代子妹、加藤君へ運動會の通知を發す。村上屋書店主人來校、昨日書状にて注文のフートボール、書籍、其他賞品を持參す。

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明治三十九年(1906年)十月八日 月曜

曇。

起居身體 午前七時起床、午後十二時就褥。

行事交際 放課後、綱引用大綱を製造し終る。藤井屋主人來て主人となり呉れて。兩女教員は旗の修理をし呉れる。これらの用事のみで解散、遲くなり松田さんは渡辺さんに、高橋君は予が方に泊らる。午後十時過、後藤吉助氏かねて注文おきし紙、繪の具〔兒童用〕を持參して泊らる。課業は二時間の外、紫遊戯練習をなす。

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明治三十九年(1906年)十月五日 金曜

はれ、夜に至り時雨あり。

起居身體 午前七時十五分前起床、午後十時十五分就褥。

行事交際 運動會費寄附募集簿を、學務委員近藤榮五郎君に廻す。

義務教育六ヶ年に閣議決定したれば、不日發布となるべしとの記事、越佐新聞にみゆ。

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明治三十九年(1906年)九月廿八日 金曜

晴。

起居身體 午前七時前起床、午後十時半就褥。身體可。眼疾治療を受く。

行事交際 在京甚五郎弟より來書あり。弟が今月出發前、毎月一回文學の練習たる作物の交換を約しおきたれば、其作物〔短文二、俳句數首〕をおくり呉れたり。尚弟の通信によれば在京大兄が本月十二日應じ給ひし、判檢事登用の論文試驗成績は未だ發表ならざれども、大兄の成績はよからんとの事、大兄は身體すぐれず見ゆとの事。

所感 千代子妹は今日しも予が一昨日發送したる繪はがき及び手紙を落掌したるらん。如何に見くれしか。今はもう臥所に入りしならんが、ねむらで此の里の予をおもひ呉れゐるらんか。

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明治三十九年(1906年)九月廿五日 火曜

午前はれ午後曇りて三時過より暴風雨となる。

起居身體 午前六時起床、午後十一時就褥す。身體可。眼疾の治療を受く。

行事交際 千代子妹より來書あり、其要は、

廿三日歸校は五分門限に遲れました。廿三日のみことばによれば、非常に我母がかの契約に對し一時不同意をとなへし事を御心配ある様でしたが、そは昨日いひし如くもう何にも心配するに及びませぬ。私は昨日おあひ申して始めてこの御眞意を知りました。先日の手紙にてもう御安心下されし事とおもうてをったに、これはおあひせねば御眞意はわからぬ故に今後も月に一回位はまゐります。さて先達、かの事が氣になって勉學が出來ぬなど申したれど、それはあの當時、父が早く承諾して呉れぬのみならず、ますゝゝ疑ふ様になったからです。もう何も意にかゝりません。しかしわすれがたきはおなじにて、ことに日誌をつける時の、あゝ今頃は如何におはしますやと、お察し申すのです。あゝそのころは其方様もおなじき事ならん。昨日おわかれ申す時の事で、どれほどこの身を愛して下さるかといふ事をおさっしする事ができます。實に之を思うと感涙にむせばざるを得ないのです、と。

なほ之にそへてさく子君への書一通を託せらる。其書は夕食後直にさく子君に渡す。渡したるをり同君のはなしに、先達〔八月十日頃の事〕富山縣の女教員、入院したりしが懐妊したれば、堕胎手術を乞ひたき旨の書を此頃よこしたるを手にしたり。如何にすれば可ならん。之を主人〔勇一君の事〕に示さんか、否かと。尚いはるべき様なりしも、他人に憚りて中止せられぬ。放課後千代子へおくるべき繪はがきと書を揮毫す。

母上の意により渡辺君へ梨一貫目を呈す。このうつりとして使のもの校丁妻、手拭一筋を得くる。この贈品は予始め甚五郎弟まで、同君の世話になる故に其謝禮の意を表するものとの事なり。

石川裕天君、朝立寄り柚餅子一本を贈らる。

所感 あゝ千代子妹よ、御身は満腔の愛をわれに捧げ呉るゝものよ。御身ならでかくおもひ呉るゝものは世になからん。予は廿三日におあひしたるをり御身がかへりをいそがるゝをも、しひて今しばしゝゝゝとてとゞめたるを、後に至りいたく罪ぶかゝりし事とおもひ深く心にわび、如何にして御身が怒をとかんと、わづらひゐたり。御身はもう、かの事を怒りて今後來り呉れずやとおもひたり。然るになさけふかく感涙云々の言葉の上に、月に一回位は來り呉るゝと。げにうれしきよ、あゝうれしきよ。

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明治三十九年(1906年)九月廿四日 月曜 秋季皇靈祭

晴。

起居身體 午前七時前起床、午後十時就褥。身體可。

行事交際 午前十時前廿分、脇川を發して學校に立寄り、十一時廿分そこを發して長岡に行く。

在京宗吾兄上より來書あり。本月十七日夜半より十八日午前四時頃の間に於て、盗人裏戸を突き外して忍び入り、二階に上り來り、枕邊に置きし金庫〔支那かばん類〕を階下に持ち行きて開き、金參拾七圓を竊取し去りたりとの報あり。あゝ兄上の不幸何ぞ甚しきや。本年は同業者が近くに開店したるにもかゝはらず、勉強して多少の剰餘金を年末に殘さんと、はげみゐ給ひしときゝしに、この災厄いとも心外の事どもなり。

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明治三十九年(1906年)九月廿三日 日曜

午前雨、午後晴。

起居身體 午前五時半起床、身體よし、午後十一時就褥、脇川にて。

行事交際 午前七時半、大字雁島村社祭禮につき、渡辺勇一君がりにまねかれ、赤飯の饗を受く。すぎ子、千代子も來る。午後一時歸校、千代子また踵いて來校し、相語らふ事約一時間の後、千代子は渡辺君に立寄りて後、歸校の途に就く。本春千代子より借りをりし算術書二冊を返す。

午後五時過歸宅す。重義弟も休業なりとて、昨日歸宅せりと。母上とは去ぬる十日、斎藤君方へ行き呉れ給ひし後、はじめて會したるものなるが、母上は予が妻の決定につきて、いたく満足し、かつ斎藤兩親及び千代子の人物につき、其温良なるを見て、充分の満悦を表し給ふ。あゝ予も之にて大に心安し。

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明治三十九年(1906年)九月十二日 水曜

大雨 學校にては、うそ寒き感あり。

起居身體 午前七時前十分起床、午後十時就褥。身體常。

行事交際 千代子より十一日附にて來書あり。其要に、八日夜より九日にかけて不快のおもゝちしたりしは、父がかの件承諾につき、母が不同意をとなひ、八日夜は酒を出せよとの父の命ありしも、母之を肯ぜず、つい夕食はかの如くおくれたるなり。これ私がいたく心苦しく思ひし事なり。もう心安し、案じ給ふことなかれ。卒業後直に結婚するを賛せざるは、少くも一年以上の修養を要する意見なり。しかし之に對し御意見あらば承りたし。十日には御母上のうるはしき御顔を拝して、いともよろこばしかりきと〔斎藤母上が不同意をとなひ給ひしに、父君が酒にゑひをりて、而も母上の同意も得ずして、たゞ一人にて取りきめられたるが、きこえぬとの由〕。此書によれば我母上、まさしく斎藤家に十日午前に至り、午後二時過歸宅の途につかれ給ひ、そのをり千代子は吉市關上の橋までおくりくれしなり。

あゝこの母上の行によりて、斎藤母上の心もとけしか、如何。たゞうらめしく心に残るは、斎藤御兩親が予を明かに解し、確かに信じくれ給はざるふし、ありやの點なり。こはたゞ予自身が苦しきのみならず、千代子も苦しかるべく、はた御兩親が信ぜざるものに、やむなく其愛娘を妻はさゞるを得ざるに至れりと、思ひゐ給ふは、いとも子に於て罪深き事と思ふなり。しかし千代子の書に、おはなしの結果をきいて安心しましたとありしは、母上も心をとき給ひしによりてか。

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明治三十九年(1906年)九月九日 日曜

午前雨、午後晴。

起居身體 午前六時過起床、脇川に歸り午後十二時就褥す。身體よし。

行事交際 朝食後、斎藤大人は昨夕刻承認ありし千代子を予にくれたまふ豫約につき、次の要件を提供し給ふ。曰く、

承諾の上は、學資等貴方に於て負擔云々を提言せしも、こは世間躰も美しからねば、卒業迄は當方にて負擔する事とし、卒業後尚、別居〔予と千代子〕ならば千代子が収入の餘財は、三年間當家に入るゝ事とせん。若しまた直に同居の事とならば、其時に至りて他の方法をとるべし。尚かく豫約成立したりとて、送籍其他の形式は後日とし、たゞ一回母上の入來を請ふと。

予は之に對し一言の異議なく快諾す。此後父君は少時外出せられ、千代子は予に多くの寫眞を見せたり。晝食の饗を受け、午後一時十分辭し歸る。

歸校早々筆をとり次の書を認む。こは千代子に遣すものなり。

かの件父君より承諾たまはりてより、御身が面貌いと憂がちに見えぬるが、こは察するに世間に對する、所謂外聞をおそれてなるべし。抑、此件の決定たる斷じて不合理にあらずと信ず。即ち、内に省て疚しからず、何ぞ世人をおそれん、人を憚からん。決して意とする事なかれ。之を意に介するは、たゞ其心身を勞して、はては修學上にも影響し大なる不利となるのみ。今後幸ある希望を繋ぎて、身を健に勉學あらん事を切望す、と縷々數百言を述ぶ。

學校にて書き終へず歸宅してまた書く。午後六時歸宅して母上、姉上へ本件の顛末を詳細に報告し、尚母上に明日斎藤家に行き給はりたき様請ひしに、快諾あり。尚斎藤父君にあつる禮状を認む。

彦蔵老人、毎夜々番の爲我家に泊る。

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