明治三十九年(1906年)九月八日 土曜
曇。
起居身體 午前五時半起床、七日市斎藤家にて午後十二時就褥。昨日テニスをなしたる疲れにてか身體やゝ不快なり。
見聞行事交際 午前七時四十分甚五郎弟はこゝを發して長岡爲二弟方に行く。明日五時五十一分長岡發上りの列車にて、上京の豫定なり。母上よりはがきもて、かの話につき談じたき事あれば、此状着次第、歸宅せらるべしとの趣申し送り給ふ。こは与板木村叔父君の筆跡と察せられ、談ずべきとは予が結婚問題に付、木村叔父君が何等かの意見を、母上に對し陳せられしによるなるべし。是れとるに足らざるものなるべく、むしろ予が胸算に多少の打撃を加へるつもりなるべしと思考したれば應ぜず。午前十一時頃、脇川橋本喜一郎また母上の意を傳ふ。こは甚五郎弟が用品を長岡へ運び行きての歸途、立寄りしものなり。
午後1次卅分高橋君と同道にて出發し七日市斎藤家に行く。大人は与板に行かれて不在なりしも、歸宅迄待つ事と決心して休憩す。千代子君へ次の要領なる書をわたす。
予は本日あくまで君が父君の承諾を得んとの決心して來れり。予は承諾したまはりたる上は君が一身上の諸件〔學資其他も〕を負擔する覺悟なれば、父君の意見なる卒業後數年、家の爲に盡くさしめるべからずとの事に對し、之を取消す理由となるべし。
結婚の遲きは後繼者のおくること、君が卒業後數年間に於て、互に戀慕するの情は今にまさりて苦しからん。之を充さるべき境遇となりて、而も許されざるとせば、なかゝゝの苦悶なるべしとの事と、すべて事物、思ひ立ちたる氣勢に乗じて遂行せざる時、其結果のよからざるをみるとの理由あれば、あくまで急ぐを要す。君は卒業直に遂行するの不可を言ふ。是れ何たる意見ぞ、根據を探ぐるに苦しむ。察するに父君の意見を其まゝ受けてこの他に方法なしとし、尚また世間を憚るの意ならん。是れ不可なり。予は此件交渉問題を苦にして、健康を害したるにあらず、人目を憚りつゝもあまりに君が戀しさに、或は心力に疲勞を來したりしにはあらずや。こも多少健康上に影響したりしにあらずやと思ひ決心したり。案じ給ふなかれ。など他に細事數項。
予が之を渡すや、時を移さず七日朝附にて認めおきし書を同君よりよこさる。要次の如し。
父母は尚兩人の關係に深き疑心を持しをり。家に歸宅したる時くさぐさの事こまかにきゝだされ、かつは今後の交際につき訓戒せられていとも苦しくありました。また父はあなたの事を信ぜず、「かの先生は師範御卒業の時には成績優秀でお出でなされたといふのに、なぜかゝる田舎に引きこもりてお出でなさるのであらう、なぜ今迄無妻でお出でなされたのであらう、餘り意氣地がないではないか」といふたさうです。あゝかゝる父の非まであばくは不孝なれど、しかし其反面をみて下さい。此點よりしても御轉任がのぞましい。なるべく長岡より遠き地に。もう此様に疑はれては文の交通も、休みに行く事も出來ません。この様の話がいつも頭を去らないで修學にさはりがあります。宿題もまだ出來ません。かのはなしはこれだけにしておいて下さい。決して末にならぬ事はありませんから。最後に身體をお大切に、御勉學あらん事を。私の事は決して御心配下さるな。御手紙の交換はやめにしても病氣は遠慮なしに知らせて下さい。私も、と。
あゝ親の疑い、いともさる事なり。親の心の深き、其子の身の上をおもふかくの如し。いとも尊し、さりながら千代子君の苦痛、察するに堪へずぞかし。午後五時に近き頃、斎藤大人歸宅せらる。依って予が決心して來りし其理由と、あくまで今回承諾あらまほしと請ひしに、大人たやすく然らば其事にいたしませうと快諾をたまはりぬ。あゝうれし。談はこれにてやみぬ。日は暮れかゝれり。依って好意に從ひて此家に泊る。大人は今日与板吉川家に、嫁媒介者たる要件にて行かれたるにて、頗る酔氣あり。夕食後間もなく臥所に入らる。午後九時頃、きせる羅宇竹折れたれば、十時頃千代子より筆の軸を請ひ之をおぎなふ。千代子に對し今回愈父君の承諾をたまはりしが、今後に對し何等希望あらばきかまほしといひしも、たゞ結婚は卒業後、少くも一年位の後にせまほし、世間にはづかしくて卒業後直にはなすに忍びず、といひしのみにて、他の答なかりき。千代子は父君が承諾をたまはりて後は何となく憂へがちなり。こはそこはかとなく結婚、それが大事におもひなされ、かつは此結婚豫約の世間に流布したらば、或は他人より何らかの戯言をたむけられんか、などの心おそろしくおもはれての事なるべし。
所感 宿望は今日しも達せられぬ。予が偕老のともは、こゝに正しく決定せられぬ。予が幸、何物か之に過ぎん。あゝ心いとも安かり。予は斎藤大人に意氣地なしではないかと言はれしを感謝々々、予を誹るものは吾師なり。吾恩人なり。予は感謝に堪へず。予が此田舎に引きこもり、是迄無妻なりしは充分の故ありての事なりし。なれども又予自ら意氣地なくして、永くこゝに停るの已を得ざるに至りしかを、自省して羞づるの意なきにしもあらず。こは他人の言をきかざる前、すでにゝゞゝ此感ありしなり。然れどもこれまた意氣地なきによるか、此自ら感じたる意氣地なしの缺點を、容易に補正するを得ず。碌々として空しく過ぎぬ。此他人よりの誨詞、予に於て無上の價値を有する教なり。あゝ感謝に堪へず。自ら以て鑑むべし。
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