快晴。
起居身體 午前五時前起床、午後十一時過就褥。身體よし。
行事交際 終日畫をものす。
午前十時過、斎藤千代子君、渡辺すぎ子君の兩人雁島前の堤防に見ゆ。行きてさく子君の疾患にかゝりたまひて、千代子君の來るを待ちわびゐたまひしを告ぐ。
十一時、千代子君來校、約三十分程予が揮毫をみて歸らる。此時語りたき事は山々ありたれど、中村君の來合はせゐられしかば果さず、また晝食後直に來らるべしと言ひて別る。
約の如く君は零時過來校せらる。あゝ嬉し。心は躍りて畫筆は手にあるもまはらず、やがて予が宿直の室に請じ入れ手を握りて次の事を語る。
一、予が失敗のありしにより君は心を變じ給ふが如き事は露ありとは予は思はず。君がある時の書に、些か予が疑へりやの意を齎らせり。これ君が心深き案じに出でて之を解かん爲なりしも、かゝる憂は斷じてもちたまふに及ばず。
二、君が送りくれたまひし君の寫眞は予に於てはいとも樂しきもの、いつもゝゝゝ見ては樂しみをれり。
三、君への書状は君に於ては言葉淺くて、物足らぬ感じのせらるゝ事あらんも、これ萬一君が書により兩人の關係が世に洩れん事を憂へての心配りなり、含みおきたまひてよ。
四、繪はがき〔君が自筆の〕おくりたまへよ。君はかゝれぬと言ふ。
五、こは些か研究問題と思ひたまはんも、予が思ひしまゝ語らん。予と君との關係は既にかくの如し。今後尚文書の往復、或は相會うて語らふも多からん。かゝれば之によりて或は世人の疑を招き、一犬虚を吠いて萬犬實を傳ふるの例にて、兩人の關係が世に發覺せじともはかりがたし。若し事こゝに至らば一生の重大問題、兩人の名誉は全く傷はれ果てん。故に兩人契約の實をして父兄の承諾を經しめん。此事にして果しおかば萬一世に發覺したりしとも何の患もなし。如何と。君曰く、笑止ければ忌なりと。
かく相語りをる頃、大工晝寢終へて又來校したれば、暫く書齋に當ておける裁縫室に至りて予は揮毫もしては、其あひゝゝに筆おきて語る。君は前第五項の件について深く心に憂あるが如し。よりて又引きよせて手を握り、此事、實行如何と言ひしに、よしとの答。しかし他人に知らしむるは忌、只兩者の父母兄弟にのみ知らしむる事にせんと。予、しからば同君の父君に交渉せんかと言ひしに、君はさしたまへてよと答へらる。かくしてゐるに時は午後の二時を報じたれば、君は辭し去らる。
六、此暑中には如何に暮し給ふか。さく子君を誘ひて湯治したまへ。予も同行せまじと思ひをれり。しかし同行は賛か、否か、問ひしに君は忌と。これ人目を憚りての事ならまし。其他數件の談。
所感 千代子君は現下師範在學中なるが爲か、此日語りたる時の君が心情を察するに、兩人の關係に些か悔ゆる所あるが如く、うるさしとの念あるかの如く思はれたり。しかし、こは予が疑心の爲かく思はれしものか。予より直接に千代子君の父君に、後日、千代子君を予が妻としてたまはれとの交渉は頗る突飛なる感ありて、決行せんには大に考ふべき所あり。萬一此點よりして同父君が予を拒くるが如き事ありては一大事なり。如何にすべきか。
さく子君の病状はやゝおちつきたるとの事、めでたし。