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2008年11月

明治三十九年(1906年)六月廿九日 金曜日

午後六時過よりは雨、それまでは晴。

起居身體 午前五時起床、歸校三分遲刻。午後十時二十分就褥。身體よきに復す。

行事交際 午後石川祐天君來訪。二時出發長岡に行き時計更換用品購求をなして、午後八時四十分歸校す。夜大工弥曾八來校、注文品の出來遲きを詫ぶ。松田とき子君の親切さ。先日予が單物の洗濯をなし、皺のしの面倒さをかこちゐしに、早くも之を聞きつけ、私がしてあげますとて直にのしくれられし事よ。

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明治三十九年(1906年)六月廿八日 木曜

晴。

起居身體 午前九時起床、午後十二時就褥。此日歸宅。身體胃腸衰へたる氣味。

行事交際 午後渡辺國手來遊。午後六時出發歸宅す。自宅にては本日繭をかきて賣りたまへしに五貫目にて、一貫目四圓八拾五錢の賣價なりしと。せはしともせはし。母上に予が妻を撰定したき旨、申出しゝに頗る滿悦の躰にて大賛成を表したまはり、予が意見の如く予が撰定して、予が直接其父兄に交渉すべきをも許したまはる。あゝこれにて予は母上及び兄上の許を得たれば、もう千代子を望むべく交渉するの自由を得たり。うれし。鈴木蕉喜庵君、久闊を謝し、かつ和歌、俳句を送りよせらる。

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明治三十九年(1906年)六月廿七日 水曜

晴。

起居身體 午前六時起床、午後十時十分就褥。身體可。

行事交際 午後一時半より協議會を開く。今回役員の改選をなしたるに、會長は萬票にて予が當選、幹事は太田君と藤本君となり。遊戯講究及び議事を了したるは午後六時。

夕食後、渡辺君がりに行き沐浴し、歸校の後習畫と倫理研究とをなす。兄上より廿三日發の予が書に對する返書あり。其要に曰く、妻の選定は一刻も早くせらるべしと。尚兄上の神經衰弱は近々快氣故さほど心配すべからずと。

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明治三十九年(1906年)六月廿四日 日曜

晴。

起居身體 午前六時起床、午後十一時半就褥。身體疲勞を覺ゆ。

行事交際 午前は來觀者多からず、午後は頗る多かり。賣約七八點あり。會場の一部にて來合せたる岡田師、野口師、卓峰君、一石君、松尾君及び野村君と席上揮毫をなし、畫箋のまくりに合作をなし、三省館出の扇子に揮毫をなす。

午後六時半閉會して出品畫を取纏め、寶長軒にて此會關係者八名と懇親會を開く。爲二弟がりに泊る。今日會場にて千代子君に會ふ。來るべき日曜には予を訪問すべしと。

所感 岡田師の繪畫安賣主義、換言すれば多作して、多方に名を賣り収得を多からしめんとせらるゝは、いと面白からず。あまりの安賣は美術の眞價を誤解せしめて、美術と工藝品とを同一せしむべし。是れ美術家たるものゝなすべき事ならんや。

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明治三十九年(1906年)六月廿三日 土曜

晴。

起居身體 午前四時過起床、午後十二時就褥。

行事交際 午前五時出發歸校す。在京兄上へ書状を發す。

其要に、弟の妻を撰定いたしたしと。其理由次の如し。

一、年相當に長じても妻なければ、人格圓熟に妨げあり。

一、社會に信用厚からず。

一、殊に弟の如き一校の長にあり、諸多の會合に其名を列する者に於ては是あり。

一、親同胞の憂慮あり。故に此意を決したるなり。而も郡視學に至る迄しきりに之を勸められたり。さはれ今急に其實を舉げん。經濟上と修養上とに多少の支障を感ずれば、現下はたゞ撰定しおくのみとして、其形式をも實にするは二三四年の後に於てせん。かくすれば前陳の弟が缺點を補ふを得て、而も他に支障をみるに至らざらん。御意見如何と。

午後一時出發長岡に行き美術展覽會場に出席、事務を執る。西洋畫家木下卓峰君なども來ゐられたり。來觀者頗る多し。賣約濟三四點あり。今夜は出品畫保護として、岡田師、一石君、大塚君とこゝに泊る。

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明治三十九年(1906年)六月廿二日 金曜

午後雨。

起居身體 午前五時起床、午後十一時長岡藤田君方に泊りて就褥。身體よし。

行事交際 午後一時出發、大塚君と共に長岡に行き、岡田師の手傳して、明日より開く美術展覽會出品畫の装飾をなす。宿は三省館方。その宿よりうどんの夕食を饗してくれられ、午後十時迄かゝりて仕事を終ふ。与板鈴木二三郎君へ美術展覽會の案内状を發す。

千代子君へ手紙を發す。要には、昨日着の君が書中にかゝれし、かの夫婦契約公然交渉の件については、今一應直接聞きたき事ある故、來校ありたし、たゞし廿四日日曜は長岡に行きをる故、其翌來月一日の日曜に願ひたし。體育論は何れおあひ申したるをりに致したし。湯治は八月一日頃より約三週間がよからんと。

脇川より使來り單物、野菜、魚等をおくりたまはる。

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明治三十九年(1906年)六月廿一日 木曜

晴。

起居身體 午前五時起床、午後十一時就褥。身體よし。

行事交際 午後二時間ほどテニスをなし畫を揮毫し、鴛鴦及び山水畫二枚を成功す。

千代子君より來書あり。去る十七日話したる父兄の承諾一件は、一時も早き方よければ、其様に取りはからはれたしと。其他數件を言ひこさる。

夕食後、渡辺さく子君へ病氣見舞として杏甘露煮〔廿二錢〕一罐を呈す。

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明治三十九年(1906年)六月十七日 日曜

快晴。

起居身體 午前五時前起床、午後十一時過就褥。身體よし。

行事交際 終日畫をものす。

1119_2午前十時過、斎藤千代子君、渡辺すぎ子君の兩人雁島前の堤防に見ゆ。行きてさく子君の疾患にかゝりたまひて、千代子君の來るを待ちわびゐたまひしを告ぐ。

十一時、千代子君來校、約三十分程予が揮毫をみて歸らる。此時語りたき事は山々ありたれど、中村君の來合はせゐられしかば果さず、また晝食後直に來らるべしと言ひて別る。

約の如く君は零時過來校せらる。あゝ嬉し。心は躍りて畫筆は手にあるもまはらず、やがて予が宿直の室に請じ入れ手を握りて次の事を語る。

一、予が失敗のありしにより君は心を變じ給ふが如き事は露ありとは予は思はず。君がある時の書に、些か予が疑へりやの意を齎らせり。これ君が心深き案じに出でて之を解かん爲なりしも、かゝる憂は斷じてもちたまふに及ばず。

二、君が送りくれたまひし君の寫眞は予に於てはいとも樂しきもの、いつもゝゝゝ見ては樂しみをれり。

三、君への書状は君に於ては言葉淺くて、物足らぬ感じのせらるゝ事あらんも、これ萬一君が書により兩人の關係が世に洩れん事を憂へての心配りなり、含みおきたまひてよ。

四、繪はがき〔君が自筆の〕おくりたまへよ。君はかゝれぬと言ふ。

五、こは些か研究問題と思ひたまはんも、予が思ひしまゝ語らん。予と君との關係は既にかくの如し。今後尚文書の往復、或は相會うて語らふも多からん。かゝれば之によりて或は世人の疑を招き、一犬虚を吠いて萬犬實を傳ふるの例にて、兩人の關係が世に發覺せじともはかりがたし。若し事こゝに至らば一生の重大問題、兩人の名誉は全く傷はれ果てん。故に兩人契約の實をして父兄の承諾を經しめん。此事にして果しおかば萬一世に發覺したりしとも何の患もなし。如何と。君曰く、笑止ければ忌なりと。

かく相語りをる頃、大工晝寢終へて又來校したれば、暫く書齋に當ておける裁縫室に至りて予は揮毫もしては、其あひゝゝに筆おきて語る。君は前第五項の件について深く心に憂あるが如し。よりて又引きよせて手を握り、此事、實行如何と言ひしに、よしとの答。しかし他人に知らしむるは忌、只兩者の父母兄弟にのみ知らしむる事にせんと。予、しからば同君の父君に交渉せんかと言ひしに、君はさしたまへてよと答へらる。かくしてゐるに時は午後の二時を報じたれば、君は辭し去らる。

六、此暑中には如何に暮し給ふか。さく子君を誘ひて湯治したまへ。予も同行せまじと思ひをれり。しかし同行は賛か、否か、問ひしに君は忌と。これ人目を憚りての事ならまし。其他數件の談。

所感 千代子君は現下師範在學中なるが爲か、此日語りたる時の君が心情を察するに、兩人の關係に些か悔ゆる所あるが如く、うるさしとの念あるかの如く思はれたり。しかし、こは予が疑心の爲かく思はれしものか。予より直接に千代子君の父君に、後日、千代子君を予が妻としてたまはれとの交渉は頗る突飛なる感ありて、決行せんには大に考ふべき所あり。萬一此點よりして同父君が予を拒くるが如き事ありては一大事なり。如何にすべきか。

さく子君の病状はやゝおちつきたるとの事、めでたし。

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明治三十九年(1906年)六月十六日 土曜

快晴。昨日暴雨たりしが、今日は朝霧たちこめしが珍しき晴となる。

起居身體 午前六時半起床、午後十一時半就褥。身體頭痛せしも後に快くなる。

行事交際 午前中畫を揮毫したりしが頭重く不快なれば、午後、出岡して女子師範に行き、該校創立記念日の催しなる運動會をみ、來賓としてテニスの試合をなす。試合三戰に及びしもみな敗れる。何たる不運ぞや。此行の序に展覽會出品畫成功の分だけ、岡田師に批評を乞ふ。午後六時四十分出發歸校す。

夕食後、渡辺君を訪ひ畫をみせ、テニス用の箕の注文方を依頼す。

同君細君は昨日懐妊三ヶ月の胎兒を流産せられ、其後産下らずして、本日午後長岡病院醫を請じて、麻酔手術を施されしに、其後發熱していと苦しまる。よって一時間程看病しまゐらす。

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明治三十九年(1906年)六月十一日 月曜

快晴。

起居身體 午前五時前起床、午後十二時就褥。身體よし。

行事交際 本日晴天なれば、七日の協議に基き午前六時四十分出發して長岡市坂之上小學校に行き、中村、松田、高橋の三君及び大塚音吉、伊藤よき、松井梅野の諸君と共に授業を觀る。兒童の躾は大要なされたる様なれども、教授法に至りてはよく研究せられざるものと見えたり。此序に盲啞學校の教授を觀る。啞生の教授は殊に妙なり。こゝにゐる事二時間の後、附属小學校に至り教授を觀、かつ岩崎主事と教授等の意見を戰はす。

午後二時過、斎藤千代子、渡辺すぎ子、松田とき子の三君とテニスをなし、しばらくして高橋、大塚兩君も來り、尚師範女生徒もまじりて五時迄なしつゞく。

今夜は爲二弟方に泊る。松田、伊藤兩君も泊りたれば、宿を坂之上ますやに周旋す。高橋、大塚兩君は後藤方に泊る。夕食後、散歩をなして兩宿を訪ふ。あゝ今日は疲れたり。しかし千代子君等とテニスをなしたるは、いと楽しかりき。

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明治三十九年(1906年)六月九日 土曜

晴。夜に入りて一時の雨あり。

起居身體 午前五時起床、午後十一時就褥。身體健。

行事交際 午前七時過出發、大塚音吉君と共に長岡に行き、附属小學校の教授を參觀し、午後女子師範にてテニスをなす事二時間、それより岡田師を訪うて双鶴下圖の訂正を乞ふ。大塚君畫を學ばん故、師の門に入りたしとの事なれば、伴うて師に紹介したるに、師も快諾したまふ。師と共に執達吏千葉氏の賣品を觀る。女子師範にて千代子君にあひ、さく子の件につき勇一君に忠告したりし事等はなす。千代子君は予がさきに手紙もて報じたれば、之をさく子に通知したりと。本月一日歩兵十六聯隊五中隊に六週間現役兵として入營せられし久保繁之助君へ、其後の状況伺の書を繪はがきにて發す。

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明治三十九年(1906年)六月七日 木曜

快晴。

起居身體 午前六時前十五分起床、午後十時半就褥。

行事交際 明日より大方は田植につき、同日より十六日まで産業季休業の事とす。

放課後、中村君が住宅料を給せらるゝ祝としての催にて白玉團子の饗を受け、かつテニスをなす。畫もかく。

休業中、十一日、十二日は長岡市の坂上校及び女子師範附属小學校を參觀する事と協議を調ふ。

千代子君へ渡辺君に、かの大野こまの件を話したりし事及び附属校に參觀に行くべき事の報知をやる。

夕食後渡辺君がりに行き沐浴す。勇一君、去る四日の忠告に對し快からず思ひゐられずやと案じしも、さる景色は見えずいと嬉し。これにて予が忠告は其効あり。

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明治三十九年(1906年)六月四日 月曜

曇、夜雨。

起居身體 午前六時過起床、午後十二時就褥。身體やゝ疲勞を覺ゆ。

行事交際 晩餐に渡辺勇一君を招く。午前中、使して招状を遣したりしに、來べしとの返事あり。今日こそ、かのさく子との不和合なるを、忠告せんと待ちかまふ。時刻は四時と言ひやりしに、同刻來られず。同君宅より菖蒲湯に招かれたれば、行きたるに勇一君は三島郡へ往診の爲留守なりと。されど歸宅の上は是非共來駕の程待つと言ひおきしが、午後七時歸りがけに學校前を過ぎんとし直に予が方に訪ね來らる。さらば晩餐にせまじとて、かれこれ用意する間に、また患者あれば歸宅あるべしとの使まゐる。あゝ予が計畫は又失敗に歸したるかと、心竊に憾きゐしに、治療を終へて八時に來校せらる。よって直に晩餐を呈し、後茶菓を喫しながら雑談して數刻に至る。午後十時過ぎたる頃、機をみて同君の不品行につきて大要次の論據にて忠告す。

一、突然の事なれども予は朋友の義務として一言兄に言うて、兄の實意を伺ひたき事あり。

一、予は上京のをり小石川にゐる友人より、兄が東京修學時代に於て、小石川に女學生大野さんと同居して、同子と一の關係を有せられ、今その關係によって子生まれ、同子は頗る之が處置に苦しみゐるときゝたり。

一、少壮氣鋭の時代は兎角かゝる失敗はありがちにして、其時代の生理的關係及び精神的状勢よりしては、大體恕すべきなり。然れども其事に長く後の患を貽すに至っては許すべからず。若し之あらば直に其後の處置に出づべきなり。然るに兄は未だ之が處置をせられざるとは如何。

一、かゝる事は極めて秘密なれば、決して他人は知らざらん様なれど、しかし其事、事實なれば家庭内位に於ては、言はず語らず機微の間に知れて、爲に夫婦關係は頗る暗澹の現象を呈し、家庭風波の基となり、祖先父母には不孝、子孫に對しては不忠となり、一家の社會に對する信用は地におち、大に職業に支障を生ずべし。

一、抑、婦人の生命は戀愛にあり、この應愛は以て人間存立の要件にして、殊に婦人の心身は全くこゝにつながるゝ所なり。然るに此事にして傷けられたるあらんには、婦人は生命を害せられたるものにして、爲に精神の不健全を來たし其身を害せん。

一、貴下の現象、或は之に近からずや。これ兄の大に自ら省み、自ら警むべき事ならん。予は義務として此言を呈し、兄が一家の幸福を祈るものなり。心冷かに聞きてたまへと。

其答に

一、大野の子は他人、千葉縣人法學生の種なり。然るに予と同居しゐたるが故に、人は予が子とみなしたり。予はたゞ大野のはらみ子をして、其種主あらしめんと盡力したるのみ。然れどもこは成功せざりき。きく所によれば法學生は出奔し後を暗まし、其友人の周旋により金員を支拂うて〔大野より〕種者を定めんとしたれど、金は廿圓程とられたるのみにて、つひに之も失敗し、其後祕しがたくて、ひそかに愛知縣の母を通して迎へを乞ひ、共に歸りて、かねて約しおきし其道中の或ものに、其子は養子に送れりと。予に於ては今に於て何たる關係もなしと。

これは虚偽なり。然れども此言をなすは、一家を覆する事はなかるべきか。

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明治三十九年(1906年)六月三日 日曜

快晴。

起居身體 午前五時起床、午後十時半就褥。身體健。

行事交際 午前六時四十分出發、長岡に行き、單物地、夏帽其他三四點の日用品を買ひ、岡田師を訪うて作圖をなし、こゝにて晝食を頂き、それより女子師範に行き、一時間餘テニスをなし、また岡田師の畫室にて一石君と共に繪はがきを揮毫し、午後五時師と共に、本月廿三四日頃開會すべき畫會々場を點檢し、又二三の用を辨じて歸校す。時に午後七時四十分。女子師範にて千代子君に會ひテニスの相手もし話もしたり、されど思ふ事は人を憚りて言はず。

本夜より蚊帳をつる。

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明治三十九年(1906年)六月一日 金曜

快晴。

起居身體 午前五時起床、午後十時就褥。身體よし。

行事交際 午前九時過、兒童を引率して川袋校に行き、兩校兒童互に遊戯を見せあひ、零時廿分歸校す。

午後校の扁額の繪畫を取換ふ。

五月卅日の越佐新聞に小山寅彦君〔新潟師範訓導、予と同學〕は此度、廣島高等師範學校附属小學校主事〔訓導の誤りならん〕に任ぜられ、不日出發すべしとみえたり。

本日より補助貨幣五十錢、二十錢、十錢の三種銀貨、改鋳施行せらる。

所感 小山君榮轉の報を知り得たる予、敢而之を羨むにはあらねど、予が碌々として今尚、爲すなきを想うては轉た慨嘆に堪へず。さはれ修養は怠らず、つひには爲す所あるべし。今後三年の功如何にか表はれん。決して急ぐべからず。静に進みて大に成す事あるべきかな。

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明治三十九年(1906年)五月廿九日 火曜

曇。風あり、あら砂を吹きまく。午後八時前少時間暴雨あり。

起居身體 午前五時半起床、午後九時過就褥。身體いと疲勞を覺ゆ。これ放課後の仕事によれるか。

行事交際 千代子君より書状參る。いとうれし。其要に、昨日友達より體育談を聞きしうち、水浴は皮膚を強健にする効は著しけれども、一二年間も續くれば、多數の人、痔疾を患ふに至る。女子師範校長、平野教諭兩先生の經驗にて、何れもこの病をおこされたりとあり、よって早速お告げ申すと。あゝ何たる親切ぞや、わが身をいたはりくるゝ事かくも深きか。尚愛嬌に姉に寫眞を送りてひやかされたりしなどあり。

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明治三十九年(1906年)五月廿七日 日曜

午後四時過より雨となる。

起居身體 午前五時前起床、午後九時半就褥。身體常に復したり。

行事交際 午前六時半出發、出岡して岡田師の書斎にて、一石君と石膏少女像を寫生し、午後六時十七分歸校す。途中雨にも多く濡れず。

かれを例によりて開き見るは日課の様。この後は毎日しるさゞらん。

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明治三十九年(1906年)五月廿五日 金曜

晴。風あり砂塵立つ事甚し。

起居身體 午前五時十分起床、上顎のしけ愈甚しくなりて痛く、氣よろしからねば午後九時就褥す。

行事交際 午前十一時過、木村清吉君、長岡よりの歸りなりとて立寄り、晝食を喫し、午後二時過迄遊びて歸らる。

夕食後茶やはらひをなす。蚊のおそひ來るあり。かれを見る例の如し。

所感 この頃書状の來る事いとまれになりて、ものさびしき感あり。おのれもせはしき爲か人々に極めて無音がちに過ぎたり。

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明治三十九年(1906年)五月廿四日 木曜

晴。晴天の續く事本日にて一週日なり。

起居身體 午前六時半起床、歸宅、午後十時就褥。風邪の氣味にて上顎のしけ來りて痛し。

行事交際 夕食後、畫の運筆練習をなしつゝ、姉上より開田一件に關し、清水甲三奴輩が佐々木家小作人を、根據なき理由にて、かれこれと詰責したり等の頭も痛むばかりの談話を聞き、しばらくして寝る。

かの寫眞を見る事數度、いくら見てもあかぬかも。

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明治三十九年(1906年)五月廿一日 月曜

晴。

起居身體 午前六時起床、午後九時就褥。身體よし。

行事交際 放課後細目編纂會を開き五時終る。細目會の前にあたり中村以下の四教員に對し、十八日の遠足は、遠足の趣旨にもとりしのみならず、一旦高橋君より天候及び兒童準備不調の點より、遠足見合せとの命令を下したにもかゝはらず、一部兒童が遠足の準備を調へて來り、決行を強制したりとて、引率すべき兒童の僅に三分の一程を率ゐて、其言を容れしは甚しき失策なりし事を責め、後來を戒む〔予は此日校長會議に出席して不在なりしなり〕。

夕食後、寫生及び運筆練習をなす。本日より夏服着用。晝食休みに中村君をのぞきテニスをなす。

千代子君の寫眞をみること數度。

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