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長男よりメキシコからの手紙 昭和5年5月15日附

お父様、お母様、大変長い間御無沙汰し、誠に申訳御座いませんでした。

丈穂は此の永い間と言ふものは、お父様、お母様の御祈りの御蔭でせう、幸ひ健康でした。いや健勝でした。なれど実に大なる煩悶に襲はれ続けでした。其れに加へ、店が合資会社に変った為に、移動を続け通しでした。が、やうやく二、三日前より治まりましたから、今夜遅ればせながらも今迄の経過を急いで書き終へる事に致しました。時計は夜の十一時十三分前です。

扨て、光果への書状以来の事から御話致しませう。光果への書状には、あと四、五日目には次の詳細文を出すと認めましたが、生憎二日目程より、クリスマス前にメキシコ国のお祭があるとの事で、色々、店の飾りやら整理やら、仕入れやらに没頭しなくてはならなくなりました。其れに引続いてクリスマス(メキシコ国は非常に宗教の盛んな国です。殊にプエブラはメキシコで一番の宗教都市です。故にクリスマスは徹夜騒ぎの大祭なのです。)が来るといふので是れ又一層の努力で、店(佐田貿易商会はメキシコ市メソネス街が本店で、此処は卸売ばかり、小売はプエブラの支店丈けですから、祭の際は此の店に一番力を入れなければならぬと言ふのです。)は佐田主人夫妻及び金田氏まで応援に来ると言ふ有様でごった返しの毎日でした。

本店の方は、クリスマスの一週間前頃より、合資会社にしやうと言ふ話の下に会社員待遇でなく、吾々同様の資格で這入った人で、主人がアメリカ留学中に知合ひになったと言ふ今年三十三才の独身者(此の人は福岡県人であって、アメリカに四年、及びメキシコに三年ゐるといふ世間広い人です。)及び香川といふ四十四、五才のメキシコで一流のアヘンテ(方々の店から注文を取り、一割乃至五歩のコンミッションを取る人を言ふ。詰り日本のブロ-カ-です。)をして居た人(此の人はメキシコに廿年も居、且つメキシコ人と結婚をして子供が十三才を頭に四人有る人です。)と関田君とに任せておいたのです。 其の賑やかな忙しいクリスマスを過ごして間もない一月六日に、亦、サントルイスと言ふ大祭(これは子供が父母に御礼をすると言ふ、非常に懐しい祭日です。)があったので、是れ亦忙しく暮らして仕舞った次第です。

お年取りも正月も天絲瓜もあったものではありません。殊に小売店なので、其の頃は夜の十二時過頃迄、店を開けた事が屡々ありました。其れ等の忙しいお祭がやっと静まったと思ふ間も無く、合資会社組織になったのです。其れで本店の方は後から這入った物知りの堀田と言ふ人が金田氏と替り、金田氏がプエブラの店に来、私がメキシコ市の本店へ行き、香川氏の様な、アヘンテと言ってもコンミッション無しで、市内の大商店へ卸売に出かける役になりました。亦、関田氏は相変らず、荷造り役で、倉庫や店に居ります。此の様に店の者の移動が起ったといふ訳を御話し致しますと、金田氏と佐田奥さんと気が合はず、其の結果、奥さんの金田氏に対する言が、生一本の主人に行き、主人と金田氏と口論が始まり、金田氏は日本へ還れと迄言はれたので、金田氏も憤慨し、それじゃ、直ぐ還ると言って荷造り迄したのです。併し還ったりすると言ふ事は、世間の外聞が悪いとの事で、漸く治まりましたが、金田氏が年上の堀田氏、香川氏に指示する態度が、餘りに佐田の親戚を笠にきて威張ると言ふ事で、堀田氏、香川氏の機嫌を非常に損じたので、遂にそれではプエブラの私と入れ替った方が、煩く無いだらうと言ふ事になり、替った次第です。併し今猶、支店の金田氏と本店の堀田氏と香川氏との仲が内面非常に悪い事は、疑ふ餘地がありません。此の儘進まうものなら、佐田貿易合資会社も面白くない結果を来たす事だらうと、私及び関田氏、奥様等の頭の悩みとなって居ります。

殊に私が此の前途の暗影を見詰める時、私の将来の大小をも視、悩む次第です。其れに加へて、堀田氏と言ふ人は、メキシコで今迄と言ふもの、博打商売をやって居たので、其れ等の仲間が、毎夜十二時、一時、二時迄も二、三人づつ来て馬鹿話に耽って居るので、寝る事も出来ない始末です。関田氏の愚痴を借りて言へば、メキシコへ、人の経済(安費生活)の為に、自炊、小使をさせられに来たも同然だ。其れに最初の約束とは全然違ってると言って、何時も零して居ります。実際その通りなのです。

私と、関田氏は四十五円の月給ですが、別に室も与へられず、且つ佐田さんの方で食はしてもくれないので弱って居ります。殊にメキシコは非常に室代、電燈代、食料の高価な処です。レストランの(日本でレストラン通ひと言へば吃驚するでせうが、外国は其れが簡洋食堂なのです。)一ヶ月の食料が安くて三十円、是に女に一週々々ちっぷ五十銭(普通の人は一円が相場です。)としても四週間なので計二円、故に三十二円、風呂代一回が安い処で五十銭、其れに風呂屋附きの洋服に刷毛をかける小僧にちっぷ十銭、靴磨代十五銭、計七十五銭、毎日曜とすると四回故、三円、ワイシャツの洗濯代一枚十五銭、毎日汗染むのも構はず一週間着ても、四週間で六十銭。(洗濯する処が無い為仕方なし。)床屋一回分、高い処は一円五十銭、安い処は一円、一ヶ月一回として一円、洋服のプランチャ-(綺麗に拭いて、アイロンをかける事)が一回二円、一ヶ月一回とす。髪油、歯磨で月二円、是れが室代無しのぎりぎりです。故に友の附合として、サイダ-を飲んだり、一寸果物買ったり、絵葉書を買ったりしやうものなら一銭も残らず、借金の有様です。此の上に、此の上に、月一円の墨都青年倶楽部会費と(此の会では文芸部の委員をして居ります。)月一円の日本人会への会費とで二円、及びメキシコ語を教はって居るので月三円。故に自炊をしてやっと生きてる有様なのです。メキシコでは吾々のやうな安月給を貰ってる人は殆どありません。一寸家庭奉公をしてる者でも、室を与へられ、且つ食事も給へられて、月六十円、良い処なれば、百七十円位貰ってると言ふ有様です。故に自分としては非常に我慢が出来兼ねる程です。殊に共同生活をしてると、仲間同志の穢い競争心が起るので。

まあゝゝもう少し店の様子及び主人の心を視て見ませう。主人は生一本の人で、非常に短気な人です。若い時苦しんだ人には違ひないのですが、只、苦学位なので、広い社会に出ての苦しみ及び社交などといふ経験は無いやうです。縮めて言へば、少し小さいなりに固まった人です。なれど其の欠点の中の、生一本であると言ふ事が、主人の様子から推して、又、一方に於いて大いに伸びる可能性を持って居ると信じます。主人に仕へるもの、使ふ者の間には、非常に尊い哲学の根本があるを見、又経験するのが此の日々です。

今迄書いた様な事は、誰しも経験する事でせうが、私としては凡人なる者との交際、共同生活程、煩はしく、くだらない時間、いや自分の生命の一部分である時間を嫌々ながら費す事の大なるには、とても堪らない気持です。故に将来を思ふと、今の儘で行けば、私も凡人の一員で終りはしないかと危まれる次第です。

此の様な有様の処へ、家の幸福でない知らせを伺っては非常に心配でなりません。殊に病気などとは。又、金の事、是はやっと生きる丈の少ない給料なので、どうして見やうがないのです。其の上、見せ金は、店の救助金として貸してありますが、今の店の状態では、とても返して貰ひ兼ねるので弱り切っております。(為替の支払ひに負はれて居る為)

其れでも、此の間、合資会社になった時、ボ-ナスとして五十円株を三株貰ひました。なれど株券なので、お送りする事も出来ないので、遺憾に思って居ります。

まあゝゝ、その中に良い事もありませう。いや、その良い事がもう見えて居ります。故に今迄舐めて来た苦悩は大なる成功を為さんとする私には、屁でもないとしても、第一に心配になるのは、故国に居られるお父様、お母様、弟妹の健康の如何ですから、何卒健勝で、私の帰国の暁を、御待ち下さる事を御願ひ致します。どうか私の事などは決して心配せず、お身体を御大切にされん事を御願ひ致します。

光果殿、登君、咲良ちゃん、美土里ちゃんへも御身体を御大切にと御伝へ下さい。

では今月の末に亦御手紙を差上ます。

昭和五年五月十五日午前二時認む。                     丈穂より

お父様へ 

お母様へ

追述

・徴兵檢査の猶豫願ひは、去る一月廿五日に届けました。

・見せ金は店の様子を見て、一刻も早く返して貰ひ、至急御送附するやうに致します。

・お父様よりの御芳書は第返信迄戴きました。

 又、光果よりの大東京の繪葉書も、無事戴きました。

・私の名は、あの元のテー・エフ・ラベノス・バアーミリアンは、メキシコ語には一寸当嵌まらないので、テー・エフ・リカルド・バリアンに致しました。リカルド〔スペイン語。英語ではリチャードと言ふのです。〕は非常に良い名前ださうです。〔T.F.Ricardo Valian〕

・光果殿へ外国切手を同封致しました。

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