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長男よりメキシコからの手紙 昭和4年11月22日附

光果君、暫く御無沙汰致しましたね。皆様は別に御変りありませんか。僕は相変らず丈夫で、それはそれは眼の廻る程忙しい暮しをして居ります。それが為、メキシコ到着無事の手紙すら、お出しする事が出来ませんでした。どうしてそんなに忙しいのかといふとマンサニヨ港に到着したのが102日の午前7時頃で、メキシコ市へ到着したのが5日の午前10時半頃なのです。それで此の手紙を出さうと思ひましたが、店が忙しいのと、非常に身体が疲れてゐたのと、金田様がお父様、お母様宛に無事安着の手紙を出して下さったので、さう急がないでもよいと思ひ、書かずにしまったのです。ところが、その翌日も翌日も店が忙しいやら、メキシコ市迄一緒に横浜から乗船して知合になった人が、別の処へ赴くので見送りに行ったりして、ついつい10日迄は一寸の隙も有りませんでした。殊に店で自炊もやってゐたからです。併し関田氏は店の忙しいのも構はず、方々に手紙を書いてゐました。僕はその間も一生懸命に働きとほしてゐたのです。其の熱心さや、色々の行為を主人の佐田様が認め、十一日の朝、僕に一つ店を持たせやう、君なら大丈夫だから、とおっしゃったので、僕は大事なスペイン語を話す事が出来ないながらも、必ず立派な店にして見せるといふ堅い決心の下に、直ぐ承諾をしたのです。

それ故、此の僕が持つ店が最初の支店であり、且つ僕が最初の支店長なのです。で、早速十一日から十三日迄は本店(メキシコ市メゾネス街七十七番地、支配人金田様)に無いところの色々の品物を、字引を引いたり、金田様に尋ねたりして、外人(主にアラビア人、メキシコ人)や日本人の商店に仕入をしに行ったのです。(品物の名すら判らないので弱りました。)

一方、佐田様は自分の本宅(メキシコ市オカンポ街)は僕がメキシコに着く五日前に引拂って、プエブラ市に引越されたのです。メキシコ市から自動車で(日本の急行列車位の速力也)三時間半位行った処の、人口約二十万、メキシコ第三の都市であるプエブラ市に十二日の夜帰宅されて、翌日にはその市の中心点に位する道路に面した5deMaya5033Aの家を(家と言ってもアパ-メントの大きな店と、奥に同じ広さの窓一つ無い真暗な倉庫があるだけです。併し其の倉庫の片隅には大小便所と顔を洗ふ処が有ります。それは特に僕が其の真暗な、だだ広い倉庫の中に寝起するので、家主に附けて貰ったのです。)一ヶ月百五拾圓のを百貳拾圓に負けて借りる事に決めたのです。それで僕は店に大棚を造ったりする為に、関田氏を連れ、十四日は午前三時に起き、五時半に支店に向かったのです。その途中の有様、例へば群羊を追廻す牧童と擦違ったり、或は大道路(メキシコ市よりプエブラ市迄はコンクリートを流した幅の廣い立派な道路が続いてゐるのです。)を一杯に塞いだ牛や馬や、薪を山盛り背にした驢馬の群など、日本では見られぬ様を細かに今書こうかとも思ひますが、それは五日後に其等の事から、メキシコの風俗、習慣、日本人に対するメキシコ人の感情、僕の日常生活等を詳かに記してお父様、お母様宛に差上げますから、どうか其手紙が着いたら御覧下さい。扨て其の自分の店に到着すると、直ぐ、材木や、鉄槌や、釘や、鋸や、箒や、笊や、ペンキ等、いやはや、多数の物を、字引を引いたり手真似をして買ひに廻りました。二人は朝方早くから夜晩く迄、真黒くなって店の造作を十月廿日迄懸って造ったのです。併し関田氏は十七日の午後メキシコ市へ帰ったので、後の日は一人でやったのです。その餘りの労働と寝不足と、気候に慣れないのと食物の変化とに依って廿一日は四十一、二度の熱が出、夜晝ひっきりなしに下痢をし、自分の言ふ事が耳の鼓膜に響くといふ始末なので、自分ながら死ぬのではないかと思ひました。殊に壁が崩れた、天井が染みだらけの、だだ広い倉庫の中に、たった一人で熱い重たい疲れ切った身体を、グッタリと横たへ、頭の右側で、とろとろと揺らぐ蝋燭の光を、熱い赤い眼で見詰めた時は、丁度次の様の気持でした。

夜更けて獨り燈前に坐す 哀思悠々堪ふべからず

眼底涙あり、落つるにまかす 天外雲あり、吾を招く

メキシコでは家を借りる人が、電気屋を頼んで電気を引くので、引越す時には、皆外して持って行くのです。それで僕もプエブラに着いた日、電気屋を捜し見附けて、早速引くやうに頼んだのですが、メキシコ人の癖として、五、六回催促しなければ来ないのです。其の大事な特徴を知らなかったので、明日は来るだらう、明日は来るな、などと待ってゐたのですが、とうとう来なかったのです。それでベッドの頭の近くに置いた木箱の上に、二本の薄暗い蝋燭を備へてゐたのです。併し現在は明るい電気が引いてあります。

翌日はお昼頃起きて、ふらふらする身体で十五分時許り程離れた処にある佐田様の家に行き、身体の状態を話したのです。佐田様や奥様等は非常に心配され、医者に明日あたり診て貰ったらとの事でしたが、其の日の夜からは、幸ひ下痢も止り、翌日は良好、その翌日は猶良好といふ状態、其の中に佐田様が出した手紙を見た、メキシコ市の金田様からは薬を送って下さるやら、其の上関田氏が廿五日に来てくれたので、非常に助かりました。併し彼は間もなくメキシコ市へ帰ったので、それから今迄といふものは、一寸の隙もなかったのです。今日からは佐川と言ふ廿五才の人を一人店番に雇ひましたから少しは楽なのです。時々は佐田様の奥様が手傳ひに来て下さいました。併し女の手傳ひ、殊に見識が高く、常識の無い人なので、(なぜなれば育った家が非常な財産家だからです。)却って頭を用ひました。

店は日曜日も休みなしで、朝方の七時に開け、夜の十時に閉ぢるのです。それから十分時許り行った処にあるレストランに喰べに行き、家に帰って一日の整理を済ませると、十二時になります。

店で売ってる品物は、セルロイド玩具、歯ブラシ、絹ハンカチ、首飾り、等が主で、他種々の物です。

餘り晩く迄書いてゐますと明日の仕事に差支ますから、是で打切ります。メキシコ市及びプエブラ市は七、八千尺の山の上ですから、気圧が薄いのと、非常に乾燥する為、皮膚は荒れ、唇は乾き割れ、其の上一寸前迄は毎日の様に鼻血が日に二、三回出ました。併し一つには身体に無理があった為だと思ひます。此の頃は非常に身体を大切にしてゐるので、偶にしか出ません。此の様な有様ですから、寝不足をしないやうにしてゐるのです。

唯、此の手紙を書いた理由は、餘り御無沙汰し過ぎてゐるので、気に懸かるのと、一つは同封の切手を差上げたい為です。ではこれで後便を御待ち下さい。

お父様、お母様、咲良ちゃん、美土里ちゃん、登ちゃんにどうか宜しく御傅へ下さい。

                                       19291121

且つお父様、お母様に十二月の初め迄に、電報為替で五拾弗程(日本金百拾円位也)お送り致す豫定でしたが、電報為替を組むには参拾円いるといふ事が判りましたので止め、其の代り米貨弗紙幣を一手紙毎に拾弗乃至五弗づついれて、十二月末迄には総計五拾弗程御送附致しますといふ事と、非常に身体に適さない処ではありますが、幸、耳の後ろは腫れませんので、御安心下さいとの事を御傅へ下さい。

終りに臨んで皆様の御健康を御祈り申上げます。

昭和四年十一月廿二日 午前発(金曜日)                    丈穂

光果 殿                                  (第二通信終り)

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