父の日記、メキシコの知人よりの手紙
【父の日記】
昭和十月廿九日 月曜
ほぼ晴
朝方やゝ遅く起床し、体操を終へて間もなき六時四十五分頃、電報来る。外国電報と朱印あり。やゝおののく手にて、八畳間縁近く持ちゆきて開きみれば、羅馬綴の二列あり。文は
TAKEO FUKUMAKUEN KITOKU HAYATA
愕然色を失うて心塞ぐ。子供等三人も同じ。早く見舞兼慰藉の電報をと思ひ、急ぎ喫飯して装を整ひ、出勤の用意をして豊島局に至り、外国電報について訊く。取扱ふといふから、此宛名へかゝる意味をと申入れたれど、係員自信のない様子にて要領を得ず。出勤して英語教師に相談する。亦確信を得ず。カイユイノル ヨロシクとの電文原稿と丈穂の宛名とを添へて、気のきゝたる給仕に依頼し、自転車にて中央郵便局に行ってもらふ。九時過、局より電話、受信人住所にサルブアドルとあるは島名なるが、之はメキシコ市の町名か、之に間違ひなきかと。予も分明ならねど、蓋し町名ならんと判断して、その儘にてよろしと答ふる。給仕十時近く局員の作ってくれた発信原稿を持って帰る。宿所宛名共十一語となり、遅廻電報にて、料金廿円三拾五銭となり、御預り分十二円にては足らぬと。ヨロシクの一語を削り、金拾円を幹事より借りて更に豊島局にやる。同局にては九語と計へられ料金拾四円四銭にて済む。辛っと思の一部を果した。(本局は一語三円七十銭、豊島局は三円十二銭の計算である。甚だいぶかし。給仕へ廿銭の心附をやる。関田君へ早田氏の住所問合せをやる。丈穂の疾、立直れかし立ち直れかし、之を念ずる事切、道行くにも、廊下を歩くにも、手隙の折も、寝ても折々まどろみ覚める心地の際も、心を丈穂の腹部にさしやりて、手掌治療を続ける。神に祈願せんとの愚痴も起れど、祈らぬ前に護り給ぬ神である。ただ此際微かなる我心力でも我子の身に通じて其疾を立直す一助となれかしと思へばである。立直せかし丈穂の疾。
放課後、生徒一同講堂にて、教育勅語下賜記念式並に明治節唱歌の練習と教頭の満鮮旅行や修学旅行の感想談あり。五時半頃帰宅する。褥中にあっても丈穂の事を念うておちゝゝ眠られず。終日、復の来電を恐れてゐたが来らず。立直すか。
昭和十月三十日 火曜
曇
今日は来電をおそれゐたるに昨朝と同刻に来る。あゝあゝ。其の文に
NIJUHACHIHE JUNIJISHIJUGOFUN SHINDA
情極まってただ長大息のみ。あゝゝゝ南無阿弥陀仏々々々々々。やゝあって可愛さうな事をした。残念だ。いたわしい、の嘆声が吾にも子等にも連発される。丈穂の写真を仏壇に安じて灯明と薫香とを供へ礼拝する。子等も。子等三人は学校へやる。葬儀は後日となるべき故、当分は発表せぬつもりである。朝食後、二通の電報と丈穂の写真とを懐中して先づ浅田屋に告げ、且つ此処より学校へ電話して欠勤をも届け、次に田中さんに告げて写真と電報とを示す。同婦人は泣いて弔はる。丈穂の渡航は同婦人の紹介に基いたものであった。田中の親戚、丈穂の先輩、金田君、先年墨国にて他界された、その前例に倣って今後の取運び方を相談する。差当って本日、僧を請じて枕経の意をかねて廻向し、何れ本人の遺髪等到着を待って、葬儀執行の事に決する。次に区役所について死亡届の取扱を訊く。「彼地領事館に届出るから、それから外務省を経て本籍区役所に来り、寄留地区役所にも通達ある筈」との答である。かへるさ浅田屋より法善寺に電話して、本日午後四時来宅廻向を願ふ事とする。兄上と斎藤大人、宗吾兄上、為二弟へ死去と、差当っての営み、葬儀は後日との報をやる。復、関田君へ死去の報にあはせ、墨国に於ける丈穂の後事処理について相談願ひたいとの意を申送る。其郷里宛に。午後一時頃、本中幹事田松老兄来訪し同僚慶弔会よりの香料をおくらる。法善寺番僧四時過来宅、観経を上げて下さる。布施二円を呈す。夜、小谷兄弔問に来訪。田中さんと千鶴子さん及び津島君は子供が伝へ聞いたとて弔問して下さる。登坊より伝へたのであらう。芳情感謝。十一時頃寝る。折々覚めて丈穂の名を低声連呼して僅に心を遣る。感慨無量沸々として胸裏に溢れる。
昭和十月三十一日 水曜
曇、夜一時雨
傷ましき心を強ひて忍んで出勤する。第一時限授業の受持なし。地理科担任の狭山君に、本邦と墨国との時差を質問する。八時間の差なりと。而して墨国の廿八日十二時四十五分を邦日時に換算して示さる。之はどうも腑におちない。自宅より電話あり、関田氏来訪と。即ち欠勤して帰宅する。果実、菓子等を購ひ携へて。関田氏は昨夜十時頃、予よりの葉書を見たれば、本朝早速訪問して下されたのであると。丈穂の他界はこゝに来て知り、いたく驚きかつ悼んで下さる。昼食を供して午後二時迄、墨国の事情、丈穂に関係ありし人々の事、其の住所、遺髪、遺品の到来期の予想等について訊く。約により田中さんを招く。関田君より金田君死去の模様を訊かれる。金田君の死は渡航後三年目、昭和六年三月と記憶するが、尿毒症にて医療を受けし時、既に手遅れにて悲惨な死であったと。之を聞くにつけても丈穂も亦そうではなかったか。噫。田中さんにも昼食を供する。夜、堀田君、彼地商会支配人たりし仁、中田君、同日本人会書記たりし仁、同道にて来訪、弔問して下さる。麦酒を供して十時頃迄、彼地の事情や丈穂の事などについて話を聴く。談縷々として尽くる所なきが如し。思出の種、涙の種。午後三時過、関田君の指示による福田商会主への電報 「各位感謝、早田さん後始末たのむ」 と打つ。料金九円三十六銭である。咲良子は午後すぐ一度巣鴨局へ行ったれど、宛名を略符にしたので、届があるか確めて来なさいとて帰され、二度行って果す。三君談話中の主なるものは次の如し。
丈穂君、体格よく健康で元気、摂生に注意してゐた。ただ、レスリングを好んでやったから、その運動過激から盲腸炎でも起して腹膜炎となったのではないか。医療料が滅法高いから病気になっても重患になる迄、多くはかからず、手遅となるが常ともいへる、と。
火葬は入費莫大ゆえ、大多数は地代数年分を支払うて其まゝ埋葬する。故に送り越されるものは髪と爪位のものだ。医療料、葬儀費、遺品の送料等は多分に要るが、邦人知己が寄って醵金寄附して支弁するから心配無用である。彼地より来る横浜着の船、来春一月十日、次は二月十七日。
福田商会となれるは昨年六月一日、丈穂君は本年三月一日より独立して商売してゐた。初より機敏に熱心に働いた。独立してから、月額百五十円位の収入を得た。犬も蓄ってゐた。よい品も所持してゐた。種々の研究や広い交際もしてゐた。墨国全土は殆ど一巡した。色々の物を蒐集してゐた。擲る事がすばやかった。或は此の件で警察に拘留され、七円の罰金を払って皆が救出したなど。あゝ惜しい事をした。痛ましゝゝゝ。
【メキシコの知人より父への手紙 昭和9年11月30日附】
拝復
十一月三日附の貴書拝誦、種々御叮寧なる御禮の御言葉に接し痛み入り候。今更ながら亡き丈穂君をしのびて涙を新に致候。
御貴殿御悲嘆の程も察せられ深く哀悼の意を表し候。
実に御令息様御他界のこと今もって本当とは思へず、余りに突然の出来事にて誰も彼も呆然信ずるも能はざるの事実にて、只々運命のいたずらと諦めるより外なく、其節早速出書仕筈に御座候処、ついゝゝ残務に取りまぎれ斯く遅延の段、お許し被下度候。
丈穂君の病名は胃潰瘍より来りたる急性腹膜炎と言ひ、恐らく本人始め私等も、初めよりそうと判り候へば、平素よりおろそかには致し申さず候へども、何分丈穂君は頗る健康の方にて、少し位の腹痛(此の徴は一ヶ月程前より目立ち申候)は意ともせず働き居り候ひし程の負けぬ気性にて、別に気にも留めず、放置しありし段、今より考へれば取返しの付かぬ不注意と存ぜられ候。
病牀に苦しみ始めてより僅に丸一日と次の半日にて死没せられし点等、惜しみても余りあり、哀れにも邦人一同より残念がられ居候。
此処許同封にて葬儀に際し御香料として贈り呉れし人々の金額、並に芳名帳御参考迄に御送附申上候間御覧被下度候。
丈穂君の形見ともなるべき頭髪、時計、写真帳等は大事に保管致し居候へば、御安心被下度、本人何等現金の持合せは御座無く、一切は早田し保存致居候。
頭髪等の嵩張らぬもの等は、今度マンサーニョ十二月二十日出帆(十二月七日の予定が延びたもの)の楽隊丸にて帰国致す、ミナチツラン市に在住の水田氏(御地中田君充分承知の人)に事伝けお送り致す積りに候間、此段御含み置き被下度候。
全く丈穂君の病気に就き、当地大学教授を始め有名医者に診断させ候へども、も早や施す術も無く、我々にても如何ともなし難く、天命を全う致せしものと言ふ他なく哀れをとどめ申候。
先は右御悔み方々お知らせまで 敬具
昭和九年十一月三日 福田商会 佐藤伸
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