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2008年5月

父の日記、メキシコの知人よりの手紙

【父の日記】

昭和十月廿九日 月曜

ほぼ晴

朝方やゝ遅く起床し、体操を終へて間もなき六時四十五分頃、電報来る。外国電報と朱印あり。やゝおののく手にて、八畳間縁近く持ちゆきて開きみれば、羅馬綴の二列あり。文は

 TAKEO FUKUMAKUEN KITOKU HAYATA

愕然色を失うて心塞ぐ。子供等三人も同じ。早く見舞兼慰藉の電報をと思ひ、急ぎ喫飯して装を整ひ、出勤の用意をして豊島局に至り、外国電報について訊く。取扱ふといふから、此宛名へかゝる意味をと申入れたれど、係員自信のない様子にて要領を得ず。出勤して英語教師に相談する。亦確信を得ず。カイユイノル ヨロシクとの電文原稿と丈穂の宛名とを添へて、気のきゝたる給仕に依頼し、自転車にて中央郵便局に行ってもらふ。九時過、局より電話、受信人住所にサルブアドルとあるは島名なるが、之はメキシコ市の町名か、之に間違ひなきかと。予も分明ならねど、蓋し町名ならんと判断して、その儘にてよろしと答ふる。給仕十時近く局員の作ってくれた発信原稿を持って帰る。宿所宛名共十一語となり、遅廻電報にて、料金廿円三拾五銭となり、御預り分十二円にては足らぬと。ヨロシクの一語を削り、金拾円を幹事より借りて更に豊島局にやる。同局にては九語と計へられ料金拾四円四銭にて済む。辛っと思の一部を果した。(本局は一語三円七十銭、豊島局は三円十二銭の計算である。甚だいぶかし。給仕へ廿銭の心附をやる。関田君へ早田氏の住所問合せをやる。丈穂の疾、立直れかし立ち直れかし、之を念ずる事切、道行くにも、廊下を歩くにも、手隙の折も、寝ても折々まどろみ覚める心地の際も、心を丈穂の腹部にさしやりて、手掌治療を続ける。神に祈願せんとの愚痴も起れど、祈らぬ前に護り給ぬ神である。ただ此際微かなる我心力でも我子の身に通じて其疾を立直す一助となれかしと思へばである。立直せかし丈穂の疾。

放課後、生徒一同講堂にて、教育勅語下賜記念式並に明治節唱歌の練習と教頭の満鮮旅行や修学旅行の感想談あり。五時半頃帰宅する。褥中にあっても丈穂の事を念うておちゝゝ眠られず。終日、復の来電を恐れてゐたが来らず。立直すか。

昭和十月三十日 火曜

今日は来電をおそれゐたるに昨朝と同刻に来る。あゝあゝ。其の文に

 NIJUHACHIHE JUNIJISHIJUGOFUN SHINDA

情極まってただ長大息のみ。あゝゝゝ南無阿弥陀仏々々々々々。やゝあって可愛さうな事をした。残念だ。いたわしい、の嘆声が吾にも子等にも連発される。丈穂の写真を仏壇に安じて灯明と薫香とを供へ礼拝する。子等も。子等三人は学校へやる。葬儀は後日となるべき故、当分は発表せぬつもりである。朝食後、二通の電報と丈穂の写真とを懐中して先づ浅田屋に告げ、且つ此処より学校へ電話して欠勤をも届け、次に田中さんに告げて写真と電報とを示す。同婦人は泣いて弔はる。丈穂の渡航は同婦人の紹介に基いたものであった。田中の親戚、丈穂の先輩、金田君、先年墨国にて他界された、その前例に倣って今後の取運び方を相談する。差当って本日、僧を請じて枕経の意をかねて廻向し、何れ本人の遺髪等到着を待って、葬儀執行の事に決する。次に区役所について死亡届の取扱を訊く。「彼地領事館に届出るから、それから外務省を経て本籍区役所に来り、寄留地区役所にも通達ある筈」との答である。かへるさ浅田屋より法善寺に電話して、本日午後四時来宅廻向を願ふ事とする。兄上と斎藤大人、宗吾兄上、為二弟へ死去と、差当っての営み、葬儀は後日との報をやる。復、関田君へ死去の報にあはせ、墨国に於ける丈穂の後事処理について相談願ひたいとの意を申送る。其郷里宛に。午後一時頃、本中幹事田松老兄来訪し同僚慶弔会よりの香料をおくらる。法善寺番僧四時過来宅、観経を上げて下さる。布施二円を呈す。夜、小谷兄弔問に来訪。田中さんと千鶴子さん及び津島君は子供が伝へ聞いたとて弔問して下さる。登坊より伝へたのであらう。芳情感謝。十一時頃寝る。折々覚めて丈穂の名を低声連呼して僅に心を遣る。感慨無量沸々として胸裏に溢れる。

昭和十月三十一日 水曜

曇、夜一時雨

傷ましき心を強ひて忍んで出勤する。第一時限授業の受持なし。地理科担任の狭山君に、本邦と墨国との時差を質問する。八時間の差なりと。而して墨国の廿八日十二時四十五分を邦日時に換算して示さる。之はどうも腑におちない。自宅より電話あり、関田氏来訪と。即ち欠勤して帰宅する。果実、菓子等を購ひ携へて。関田氏は昨夜十時頃、予よりの葉書を見たれば、本朝早速訪問して下されたのであると。丈穂の他界はこゝに来て知り、いたく驚きかつ悼んで下さる。昼食を供して午後二時迄、墨国の事情、丈穂に関係ありし人々の事、其の住所、遺髪、遺品の到来期の予想等について訊く。約により田中さんを招く。関田君より金田君死去の模様を訊かれる。金田君の死は渡航後三年目、昭和六年三月と記憶するが、尿毒症にて医療を受けし時、既に手遅れにて悲惨な死であったと。之を聞くにつけても丈穂も亦そうではなかったか。噫。田中さんにも昼食を供する。夜、堀田君、彼地商会支配人たりし仁、中田君、同日本人会書記たりし仁、同道にて来訪、弔問して下さる。麦酒を供して十時頃迄、彼地の事情や丈穂の事などについて話を聴く。談縷々として尽くる所なきが如し。思出の種、涙の種。午後三時過、関田君の指示による福田商会主への電報 「各位感謝、早田さん後始末たのむ」 と打つ。料金九円三十六銭である。咲良子は午後すぐ一度巣鴨局へ行ったれど、宛名を略符にしたので、届があるか確めて来なさいとて帰され、二度行って果す。三君談話中の主なるものは次の如し。

丈穂君、体格よく健康で元気、摂生に注意してゐた。ただ、レスリングを好んでやったから、その運動過激から盲腸炎でも起して腹膜炎となったのではないか。医療料が滅法高いから病気になっても重患になる迄、多くはかからず、手遅となるが常ともいへる、と。

火葬は入費莫大ゆえ、大多数は地代数年分を支払うて其まゝ埋葬する。故に送り越されるものは髪と爪位のものだ。医療料、葬儀費、遺品の送料等は多分に要るが、邦人知己が寄って醵金寄附して支弁するから心配無用である。彼地より来る横浜着の船、来春一月十日、次は二月十七日。

福田商会となれるは昨年六月一日、丈穂君は本年三月一日より独立して商売してゐた。初より機敏に熱心に働いた。独立してから、月額百五十円位の収入を得た。犬も蓄ってゐた。よい品も所持してゐた。種々の研究や広い交際もしてゐた。墨国全土は殆ど一巡した。色々の物を蒐集してゐた。擲る事がすばやかった。或は此の件で警察に拘留され、七円の罰金を払って皆が救出したなど。あゝ惜しい事をした。痛ましゝゝゝ。

メキシコの知人より父への手紙 昭和91130日附】

拝復

十一月三日附の貴書拝誦、種々御叮寧なる御禮の御言葉に接し痛み入り候。今更ながら亡き丈穂君をしのびて涙を新に致候。

御貴殿御悲嘆の程も察せられ深く哀悼の意を表し候。

実に御令息様御他界のこと今もって本当とは思へず、余りに突然の出来事にて誰も彼も呆然信ずるも能はざるの事実にて、只々運命のいたずらと諦めるより外なく、其節早速出書仕筈に御座候処、ついゝゝ残務に取りまぎれ斯く遅延の段、お許し被下度候。

丈穂君の病名は胃潰瘍より来りたる急性腹膜炎と言ひ、恐らく本人始め私等も、初めよりそうと判り候へば、平素よりおろそかには致し申さず候へども、何分丈穂君は頗る健康の方にて、少し位の腹痛(此の徴は一ヶ月程前より目立ち申候)は意ともせず働き居り候ひし程の負けぬ気性にて、別に気にも留めず、放置しありし段、今より考へれば取返しの付かぬ不注意と存ぜられ候。

病牀に苦しみ始めてより僅に丸一日と次の半日にて死没せられし点等、惜しみても余りあり、哀れにも邦人一同より残念がられ居候。

此処許同封にて葬儀に際し御香料として贈り呉れし人々の金額、並に芳名帳御参考迄に御送附申上候間御覧被下度候。

丈穂君の形見ともなるべき頭髪、時計、写真帳等は大事に保管致し居候へば、御安心被下度、本人何等現金の持合せは御座無く、一切は早田し保存致居候。

頭髪等の嵩張らぬもの等は、今度マンサーニョ十二月二十日出帆(十二月七日の予定が延びたもの)の楽隊丸にて帰国致す、ミナチツラン市に在住の水田氏(御地中田君充分承知の人)に事伝けお送り致す積りに候間、此段御含み置き被下度候。

全く丈穂君の病気に就き、当地大学教授を始め有名医者に診断させ候へども、も早や施す術も無く、我々にても如何ともなし難く、天命を全う致せしものと言ふ他なく哀れをとどめ申候。

先は右御悔み方々お知らせまで                         敬具

昭和九年十一月三日                        福田商会 佐藤伸

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明治三十九年(1906年)一月十日 水曜

午前曇、午後夕より雨。

起居身體 午前七時二十分起床、痔疾もやゝ瘉えたる氣味にて、大聲を發するにさまで苦痛を覺えず。

行事交際 午前九時三十分の頃、鈴木村長來校あり。昨年末交渉始まりゐし、渡辺繁雄君の細君、現下西蒲原郡燕町高等小學校に在職の本科正教員なるを、當校へ來學年より奉職せしめたしとの件につき協議す。協議の結果は本科正教員にして、現下の俸給拾四圓なれば、如何にも本校の経に加重を生ずるの故を以て、之を減じて聘すとしても拾二圓以下にはなすこと能はず、さすれば來學年よりは尋常科教員中の准教員八圓を、是非共正教員約十圓俸給のものに改め他の職員の俸給も總計にて二圓ほど増額すべき豫定なれば、すでにこれにて四圓丈は本學年より教員給に於て増額の結果となるに、なお拾二圓の支出を以って渡辺子を聘すとせば、すべて六圓の増額をみるべし。此の経濟の豫算にして、全學區議員の認むる所となればよし、さなくば渡辺子は見合わせざるべからず。要するに経濟問題によって、事の成否を決すべきなれば、早く學區會を開きて來學年度の學校費を議決する必要ありとす。

課業は午前限り、午後一時前より大字芹川出身輜重兵石井末藏氏、雁島出身同兵青木金五郎氏の凱旋歸鄕せらるゝを、槇下渡船場迄出迎へ學校に來りて凱旋式を擧げ、こゝに解散す。時に午後三時十分、兒童は尋常二學年以上を引率す。

斎藤千代子の談に加藤子は冬季宿泊の宿と定めたる藤井屋には續けざまにはとまられで、宿泊勘定上、甚だ不利なりとの故障、茶屋より申立て、之を加藤子に傳へ呉れとの依頼により、其依頼の如く傳へたるに、加藤子は兩親に問うて、全然とまらぬ事にせんかとも考ふるなど、答えられたりと。

夕食後例によりて三名に教授す。

昨日藤井屋へ物品借用の禮として金六錢をやるべきところ、校丁きゝあやまりて廿錢を差出したれば、校丁自身の取分不足なりとて遣りすぎとは知らで、勘定違ひかと予に訴ふ。依而、尚昨日の勘定をくりかへして調べたるに全く上の結果たるを發見したれば、此の誤は普通外の遣りすぎたる事、當然の事なればその事情を陳べて、取り戻してさしつかえなき事とす。

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長男よりメキシコからの手紙 昭和7年10月5日附

                      昭和七年拾月五日夜   レオンにて 丈穂

父上

弟妹へ

七月拾八日附御手紙、去る八月十三日有難く拝誦致しました。猶、三月廿九日附は四月廿三日に。

突然、思ひもかけない御知らせに接して、申上げやうのない驚きと、悲しみとに撲たれ、古池に投げ込まれし石ころの如く、心は涙の水底に、重くゝゝ沈み行く許り。あの横浜の埠頭にて、熱き涙を御流し下さった、あの優しき母上が、何等物質上恵まれずに長い御病床の後、御逝れになったとは。

ああ故国に帰っても最早亡き後とは。否、此の世にては御会ひする事が出来ないとは。何たる事でせう。

実は早速御返事致さうとは焦りましたものゝ、余りの事に何と申上げてよいやら、まるで筆の取りやうのない心地で、ついつい今日迄、毎日々々すまないゝゝゝゝと思ひながらも失礼致して居りました。

併し今日になっても依然として申上げる言葉の一つさへ、はっきりと捉まれないのです。全く夢の様で。殊に、丈穂、筆不精の為、母上に御要心なさる可き便りを、途切れゝゝゝにしか認めず、何たる愚な不孝者でせう。

父上、御一同に何と御詫びしてよいやら。

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でも先づ、小生が光果君へ差上げし二月十六日附の手紙を書きし頃から、今日に至る迄の事を、御話し致しませう。且つ又、其れ等を詳細に書く事に依って、或る程度迄、丈穂のメキシコに於ける世渡りを御覧に入れる事が出来ると思ひますから。が是等詳細に渉りますと、此の紙が百枚あっても足りぬ事でせう。其れ程、丈穂の行く先々の行動対、メキシコ社会の行動間に、争闘が間断無く続けられたからです。とてもゝゝゝ。併し其れ等に対して丈穂は決して嘆いた事はありません。只、ただ、貴方々、殊に先立たれし母上に、相済まぬ事をした。其の事一事が何よりの悔です。たった一つの大なる悔です。

筆は今、母上に対して申上ぐ可き言葉の筋道を歩む、否、這ふ事すら出来ません。何うしてでせう。余りに心胸の統一が取れぬ為でせう。あり余る一部々々の心の船頭が余りに多くて、漕ぐ事すら涙の流れにつかへゝゝゝて。なれど何時か、統一の機が必ずある事でせう。

書くべき、丈穂の、あの光果君へ書きし、あの母上が御覧になりし最後の手紙・・・其の後の様子は、皆様には待ち焦れしものでせう。但し、先にも申上げました通り、余りに長くなりますから、此のせねばならぬ御報告は、次々に長編読物の如く、御便りをする事に致します。

ただ去る九月廿五日、大東企業株式会社レオン支店に、月給五拾円と、売上の歩合附条件にて、(何れ小生、店を買ふ様になるやも知れません。)株式会社別個に、個人的に収りました事だけを御報告致します。もう小生、故国を見る迄は此処に止まる事に極めました。(早ければ二年半位で帰る積りです。)大いに健康ですから、他事乍ら御安心下さい。

余りの御無沙汰にて、どれから書いてよいやら、なれど今度こそ実行の事請合ひです。翻ってみれば、此の言葉は信じられぬでせうが。それといふのも、今迄の実行するといふ便りは、結果的に虚言として終りましたから。病む母上を知り乍ら、且つ父上の苦衷を一日として忘れぬ、此の丈穂が、なぜ虚言を。それもこれも、社会と運命とに立向ひし此の丈穂は、今迄の修行中、其の虚言の太刀先を、屡、鋭く顔面に入れられました。余り相手多き為。なれど、今日此の頃は、メキシコでの修行は済み、進むを知って且つ引く事を知りましたから。もう虚言の太刀には触れぬことにしました。

さて、来週には、あの後のメキシコ生活を御聞かせ致す事にして、今夜は之れで休みませう。母上の幸福と皆様の御健康を祈って。

もう、そろゝゝ日本は秋ですね。

夜風邪を引かぬやう、蒲団に良く包るまって下さい。

親戚一同、知人に宜しく御伝へ下さい。

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明治三十九年(1906年)一月九日 火曜

晴。此頃は雪降らず雨も降らず雪は次第に消え失せて地面まだらに殘雪を見るに至れり。

起居身體 午前八時前起床、連日の睡眠不足の疲れにて、朝起きは頗る困難なり。此頃は晴天なれども寒氣頗るはげしければ痔疾もつのれる氣味にて大聲を出すには苦し。

行事交際 本日より學校の授業は正規の時間に於て正規の授業を行ふ。兒童の紛失したる廻合羽はみあたらず。中村、加藤二君へみかん五箇づつを進ず。

昨年十二月二十四日附にて郡役所より照會ありし童話傳説俚諺俗謡等調査の報告は明十日迄に差出すべきものなれど、照會の當時より今に至る迄、入學或は凱旋兵の歡迎送、學期末の校務其他の爲に多忙を極め、到底材料の収集をなし得ざりければ、報告期を約二週間延期許可ならずやと、郡視學の内意伺に書面を發す。

夕食後、遠藤繁一郎、青木秀一郎、近藤吉之助三君に教授す。

本日午後、昨日の新年宴に要せし物品購入代を藤井屋に拂ふ。金拾九錢也、外に吸物椀、小皿等借用代として金六錢を遣し、かつ校丁西村へ使賃其他、休暇中の慰勞として金貳拾錢を與ふ。

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長男よりメキシコからの手紙 昭和7年2月20日附

前略

永らく御無音に過ぎし事を何卒御許し下さい。皆様別に御変り有りませんか。其の後の母上、咲良子の御病状は如何ですか。何より一番案じて居ります。其れに父上の餘りの御活動に対して。下って丈穂は相変らず大健康、他事乍ら御安心下さい。

去年の三月に大略御知らせ致せし通り、当大東企業株式会社内の、人員の移動に関して、小生儀、支配人役を兼ねて居った次第で、日本との取引、並びに支店の指導、卸売、小売、株主との交渉等、所有仕事を任せられて居りました。然し堀田氏、香川氏、引いては佐田氏の計画、仕入れ、販売に関しての大失敗に依って、会社は大きな欠損となり、其の結果、墨都本店は差押へを喰ふ恐れが生じた為、直に小生の名に変へ(小生が潰れた会社を買取ったやうに届け)た様な有様で、瀕死に際して居る会社を背負ひ立った為、去る一月末迄は、本当に隙無き身であったのです。世間では口々に今潰れる、今潰れると言ってゐた会社も、御蔭様で何とか、吾々一同の奮起に依って、大体一段落の所迄漕ぎつける事が出来ました。其れと言ふのは小生が一任された、昭和六年の計画が総て、非常に良い効果を治めたからです。依って小生は一年間の大任を果し、一先づ落着きましたので(此の会社の商売は二月より十月頃迄は、大して忙しくないのです。)佐田氏に辞職を申出ました。辞職願ひは是で三度目です。が、此の三度目も聞き入れられず、是非とも止まって居てくれとの事でした。其れ故、已むなく小生は、其れでは、此の商売並びに現在の大任に携はってゐては、スペイン語の勉強(大体会話に不自由はありませんが)や世間を知る為にしたい事、又、日本への手紙書き、メキシコ国に関しての著作(之は小生の胸の中)其れと友達と約しし事、等を早く済ませる事が出来ない故、今年の十月迄、隙をくれと頼み、やうやく一月末の廿四日より、或るフランス人の処へ家庭奉公に這入りました。

序に、小生の日課を御知らせ致しませう。

起床、午前六時。六時十分より七時半迄、家の外表のハルデン(庭)掃除、続いてマンゲラ(護謨管のホースを言ふ)で水撒き。七時半より八時迄朝食、カフェ、コン、レェチェ(牛乳とコーヒーを混ぜたもの)にパン。八時より八時五分迄、芥捨。(八時より八時十分迄、家の直き側迄、芥取自動車が来るので。)八時十分より九時半迄、極まった仕事なし。故に自分の時間。九時半より十二時迄、受持ちの三室の掃除。(合計坪数、約廿坪也)十二時より二時迄、自分の時間。二時より三時迄、家族の昼食で、食堂の給仕。三時より三時半迄、自分の昼食。四時より五時半迄、庭を掃き水を撒く。五時半より八時迄、自分の時間。八時より九時半迄、夕食の給仕。九時半より十時迄、自分の夕食。十時より十時十五分迄、主人、子供の靴磨き。以後仕事無し。之が一日の日課ですが、自分の時間と言っても、人が出入りする場合は、何時、何時でも小生が鉄門を開けに行かなければならないのです。

其れに一週間に二回、犬の洗濯を(有りし日の小生の如く、女主人は犬狂で、九匹飼って居ります。又、自動車で約二時間の処にある、パチューカの別荘には、是れ亦、八匹)するし、一週間に一回、三室の牀を光らす為、セラ(油の一種)を塗って磨く。之が中々骨が折れます。又、同じく一回、庭道(コンクリ-ト也)及び自動車の車庫(自動車二台あり)を洗ふのです。他は時々近所への使ひ走り。休日無し。以上働いて室(寝台、机、洋服箪笥等有り)と食事を貰って、月、廿円です。給料は悪いが、此処の家族は三人、夫婦(四十才位)に一男(十九才)其れに女中二人、料理人一人、自動車運転士一人、其れに小生。故に仕事はばきゝゝやって終ひ、自分の時間を作る事が出来るので、此の家に三ヶ月程居る積りです。其の間にスペイン語の勉強、手紙書き等を済ませ、それからは隙が無くとも、金になる家で働かうと思ひます。家庭奉公に這入って、初めて判りましたが、何から何迄、自分持ちなので弱ります。例へば湯に這入らうと思へば、薪を買ふと言った具合で、殊に食事に於いては、犬の方がよっぽど旨い物を喰って居るので、癪に障ります。又は一寸、庭に砂埃が立つと、犬の眼に這入るから綺麗にしろとか言って・・・。併し之で自分が元、うちの女中を、犬が如何したとか言って怒った事等、思ひ出し、否、中々いい勉強になりますよ。

扨て、どうも話が横道へそれ、長くなりましたから、元へ戻って、 どう言ふ理由で、小生が再三辞職願ひを出したかと言ふ事を、次に書きませう。

一、佐田氏の大法螺に依って、株主を釣った事。日本の株主は離れて居るから解らないでせうが、こちらメキシコでは株主約廿名居た処、今は三名、他は皆株券返却、人々言ふには誇大妄想狂、気の変る事、天下一品。家を移る事、小生がメキシコへ着いてより今日迄、十三回、現在は一番最初のオカンポ街十五番へ逆戻りしましたが、直ぐ亦替るでせう。 

二、佐田氏は会社の金、品物、食料等々を、自家に運ぶ事夥し。其れに対して帳簿に借りとも記載せず。悪く言へば、まあ・・・其の言葉はお判りでせうから書きますまい。

三、佐田氏自らは全然働かず。

四、会社以外の、佐田氏自身の仕事を一から十迄吾々に頼む。

五、会社より取る、佐田氏の給料が莫大なる事。多い時は七百円以上、少ない時で四百円位。小生質問して曰く、一体給料は如何程ですかと。曰く日本の株主総会では、年に八千円位迄はとの事であったと。亦、第二回目の辞職願を出した時、堀田氏にも質問せるが、不明と言はれ、且つ堀田氏も佐田しに対し呆れてゐた。甚だ以て不可解、殊に現在、立つか、倒れるかの会社に対して。(吾々には小生五十五円、関田五十円、山川、早田、星、田中、広田等四十五円、皆な衣食住、自分持ち)・・・何たる重役か?

六、以上の様な有様であるが、小生一同、まさか佐田氏に対し、会社の金をどうかうしてるから気に入らぬとも言へない事。

小生としては、もう断然、佐田氏が改めぬなら、十月から復働いてくれとの事であるが、帰らず、(余り度々出ると言ったので、此処{会社を指す}が気に入らねば、僕の金五千円位持って、隣国のサルバドル乃至ずっと離れたコロンビア国へ行って、一つ僕個人の店を作ってくれと迄再三言はれた。以上は詰り、会社の金、店を融通しやうと言ふのである。呆れるにも程がある。)自分は独立独歩で立つ事が直ぐにも出来る自信あり、且つ又自分に対しては、一命も賭すといふ良友を一人持って居る。他にも良き友を。其れにもまして、小生は何よりも頼りになるのは自分であると言ふ事を忘れぬ。

故に小生は例へ、改めても帰る事を望まぬ。

小生が隙を取ると同時に関田、山川、星、田中、広田、共に辞職せり。故に会社は日本との取引全然無し。会社には新しき人が二人這入ったが、何れ三ヶ月位で出てしまふでせう。以前にも一ヶ月より長くて三ヶ月位迄で、出た人の数六人。何れ近い中に、佐田氏も余りの利己主義に対し後悔すると思ふ。小生は佐田氏の為を思ふと、会社は早く潰れた方が良いと思ふ。其れは会社が小さい中の方が影響が少くて済むからである。全然、商売人、事業家に適せず。

まあ以上の様な原因で、辞職願を出した事がお判りになると思ひますから、之れで其の話は一先づ打切り、且つ小生の独立独歩で行く準備、手段は次の手紙に譲ります、近々の状況は如斯くであります。

扨て、今日、世間に問題とされてゐる日支問題、引いては、日米戦争、否、世界相手の戦争にもならんとしつつある日本は果して如何。此の当メキシコ国に於いては、以前アメリカと戦争をし、今のカルフォルニア半島を取られた為、此の国で一番嫌はれてゐるのが米国人、支那人で、続いて、アラビア人、ロシヤ人、それに引替、一番好かれてゐるのが日本人、続いてドイツ人です。殊に今、其の一番好きな、兄とも思ふ日本が、各国の仲裁、威し文句を蹴飛してゐるので、其れが大きく破裂し、軈て、日米戦争でもやって、大いに敵を取ってくれればいいと、全国民挙って言ひ合ひ、且つ大いに助成をすると言って居るのです。いやはや毎日の新聞が、明日にも、日米戦争をやるやうな事を書いてゐます。殊に日支戦争に付いては、日本人一人で、支那人五十人以上をやっつけてしまった割合に書いてあります。日本に於いては、国民は大戦のある事を望み、且つ支那を始め、各国に対しての憤慨絶頂に達して居る事と思はれます。小生及びアメリカに永らく居った事のある人々や、此のメキシコに居る各国人の話を綜合して見、且つ日本を遠く離れて、初めてよく知る事が出来た。我が大日本帝国が如何に世界の第一等の強国であるかを。小生は思ふ。必ず日米戦争は起ると。そして必ず日本が米国をペチャンコにやっつけてしまふ事を。

日本は其ればかりで無く、世界相手にしても勝つといふ事を信じて疑はない。小生とても日米戦争が起ったならば、直ぐ様、予の部下とも言ふべき友を呼び、必ず憎むべき米国に、大きな損害を与へないでは置かない。必ずやる。故に小生は一時も準備に余念がない。(毎朝、仕事を早く済ませ、主人の起きぬ間に、新聞の日支問題欄を貪り読んで居ります。)日本は、今やらなければ復とするべき時が無い。一番好時機なのである。小生は日本が、一番の強国であると言ふ事を世界の果迄知らしめたい。今日は之れで筆を擱き、今月中にもう一度御知らせ致しませう。何卒、此の手紙を御受取り次第、母上、咲良子並びに一家の様子、及び日本の状態を直ぐ御知らせ下さい。(メキシコへ来る手紙及び、日本へ行く手紙は、皆アメリカ経由ですから、一週間に二回は船が有ります。故に早く御頼み致します。

末筆乍ら、御身体御大切に。皆様に宜しく。

昭和七年二月廿日夜十二時、認む。           メキシコ市にて   丈穂

父上様

母上様

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明治三十九年(1906年)一月八日 月曜

晴。

起居身體 午前七時過起床、痔疾にやゝなやむ心地す。

行事交際 午前九時過より校内教室の整頓をなし、十時より控所に於て始業式をげ、終って兒童に書初をなさしめ十二時解散せしむ。去ぬる一日四方拜當日、學校に於て紛失したる高等科一學年生田中庚申雄の廻合羽及び外二名の合羽蓑帽子の他人のものと、とりかはしを質したるも分明せず。尚各自よく自己の用ふるもの等につき取調べ、心當たりのものは届出づべき旨を申渡す。

午後四時より予より教職員四名、渡辺勇一君、石川祐天君を招きて新年祝酒を獻ずる事にて、放課後直に之が準備にとりかゝる。午後六時過來客そろひたれば、こゝに宴を開き七時終る。酒は葡萄酒にて外に吸物、三種の酒肴、皿、及び汁粉、雜煮の饗應なり。食終ってかるた會、まはり將棋などして共に歡を盡し十一時解散す。加藤子より紺足袋一足、石川君より菓子一袋、中村君より豆腐七丁を札にて贈らる。爲二殿、ちい殿をも招きおきたるなれど來られず。午前九時前、石井作五郎君來り祝凱旋の大字揮毫を依頼せられたれば之を書し、午前中に出來せしむ。こは凱旋兵歡迎の折に扁額を製して凱旋門に仕つくるものと。槇山、伊藤文齊君〔當校高等二年いく子の父〕より年始として最中一袋を贈らる。

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長男よりメキシコからの手紙 昭和7年2月16日附

前略

永らく御無沙汰致し誠に申訳なかった。別に御変りはないかね。何より其れが遠方に居る兄としては気に掛る。殊に留守番役的な立場に居る貴方に対して。一方、丈穂は御存知の通り、大健康で、大活躍の最中である。先づは御安心下さい。

扨て、去年の十二月中旬に、父上より戴いた御手紙に依れば、母上並びに咲良子が病気との事、少なからず頭を悩まされました。其の後の経過は如何。丈穂は普段でさへも、隙の無いのに、丁度一年の中で一番忙しい十二月の事であった為、遂々今日まで、返事も伸びて申訳ない。なれど今日よりは一ヶ月に一回づつは必ず通信しませう。珍しい事、面白い事、為になる事などを。其れと言ふのも隙のある身にしたからです。其の事に付いては父上より御聞き下さい。余り永く御無音に過ぎし為、一体どれから話を切り出してよいやら、一寸判り兼る。故に只、此の手紙は無音に過ぎし事を許して貰ふ事に止め、且つ又次よりどしゝゝと便りをする事を誓った文として筆を擱く。末筆乍ら、御身体を御大切に、皆様に宜しく。では次より。

昭和七年二月十六日夜十時認む。                メキシコにて 丈穂

光果 殿

追述 別封にてメキシコの写真並びに外国切手を送附しましたから、皆で仲良く見て下さい。(父上への手紙は二月十八日頃出します。)

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明治三十九年(1906年)一月七日 日曜

曇。

起居身體 午前八時起床、元氣やゝおとろひたる心地す。是れ昨夜長時間酒宴の席につらなりて、をりをりは酒もいさゝかしたゝめなどしたる上に、長起して夜更したる爲なるべし。

行事交際 本日は藤田一石がりへ同君親類の主婦の方、入来との事にて、予と一石君は同君二階の一室にこもりて繪はがきを揮す。此はがきは昨年長岡町、筆墨商後藤吉助氏より二百の依頼ありしも多忙の爲尚五十枚出來せざりしもの、本日是非共悉皆かき上げん心算なるものなり。故に一石君よりも手傳をこひ、午前十時迄に雜煮の馳走なる朝飯をいたゞき、それより直に揮毫にとりかゝりて午後二時成功し、こゝを出でたちて後藤方に同居の前田君がりに行き、年禮を申す。進物は昨日爲二殿と協定したる白米一斗の札なり。午後三時こゝを辭し、歸路村上屋書店にたちより、明日我校教員及び渡辺勇一君、石川祐天君を招きて、新年祝酒を呈する振舞の準備として菓子一斤をかひ早々かへる。路あしく水雪といふが如き様なれば足進まず頗る困難す。歸校五時。

予の歸校前、斎藤千代子年禮にまゐられ、足袋二足を贈らる。

夕食前、近藤吉之助君算術をならひに來る。是れ昨年末の約なり。夕食後二時間程、予は校務整理の傍ら之に教授して後、渡辺勇一君を訪ふ。夕食中、渡辺君より歳暮として牛肉罐詰一箇〔三十錢位〕石鹸一箱〔二箇入〕を贈られ、之にそへて書状をたまはる。曰く妹すぎ志望なる來る四月入學すべき女子師範の入學試験に應ずる手續、及び一年講習入學の手續等を知るべき新潟縣公報を借りたし、同じく妹まつは來る九月募集あるべき女子六ヶ月講習に入學せしめたければ、之が準備教授をたまわりたしと。是等の件は同君を訪問して詳に説明し、かつは、まつ子の方針はとにかく時機の早きを諫めたれど、すでに此法をとる外に家事の都合上やむを得ずとの事故、是又教授を承諾す。

所感 今宵は高橋君と二人住にて數日さびしく感じたるに比して、ことにうれしき心地こそすなれ。

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長男よりメキシコからの手紙 昭和6年3月15日附

05206315_2  前略

父上、母上、永らく御無沙汰致し誠に申訳ありませんでした。平に御許し下さい。皆様一同御丈夫の事と思ひます。丈穂も丈夫で大いに活動して居ります。一日も患はずに。一先づ御安心下さい。

扨て、久しぶりの書面ですから、様々の事を書きつらね度いのは山々ですが、此の手紙は至急を要するのと、忙しい盛りなれば、短く切り上げます。

一、金田兄、此の三月一日正午十五分、尿毒症の為、患ふ事四日間にして、永遠の眠りに就かれました。遺言一言としてなし。尿毒が頭に昇じし為、何一つとして解らず、只昏睡状態でしたから。何とも御気毒に耐へざる次第でした。

二、大東企業株式会社(佐田貿易商会改名)支配人、堀田兄(以前の手紙に一寸御知らせ致した御方)事、去る二月十九日マンサンニヨ港発、墨洋丸にて横浜へと御出発。兄の帰国に付いては、一つには父上が亡くなられたのと、二つには当会社の貿易取引先、其の他に関してであります。着港の上は第一に東京へ参る由、其の節は我が家に御寄り下さるとの事、何分御便宜を御計り願ひます。兄は喰物に好き嫌ひの無い御方と察します。

三、丈穂事、堀田兄御出発、続いて金田兄に去られし為、殆どの仕事を引受け、一日として暇の無い身体となりました。堀田兄と一緒に御入社なされた香川兄は、此れ1月辞職なされし故、今は小生(本店持ち)と、関田氏(プエブラ支店)、羽田氏(去る十一月メキシコ着、三条中学出、三条者、年二十三、四、レオン支店)、花田氏(去る十二月メキシコ着、高等小学出の由、佐渡者、年三十三、四、本店の手伝ひ)、是等の言葉の解らぬ者許りなれば、骨の折れる事一方ならずです。小生、金田兄の葬式を済ませし三月三日の夜、レオン市(首府より汽車で約十二時間の北方にある可成の市です。)に支店を設ける為、羽田氏同伴にて(彼一人では言葉が出来ぬ故)首府を発ち、今日で、開店以後七日になりましたので、稍、落着く事が出来ました。が、羽田氏が品物の値も解らぬ為、此の廿日頃迄居り、続いて集金に地方廻りをし、四月の二日頃帰首府の予定です。其の後、隙間を見て、緩くり御手紙を差上げます。丈穂の身体壮健故、決して御心配なく、注意に注意して居りますから。

以上取急ぎ、御報知やら、御願ひ迄。

皆様一同御身体を大切に。 ではさようなら。

昭和六年三月十五日午前十一時発(日曜日也)   レオン市にて      丈穂

父上様

母上様

(追述)光果殿、登殿、咲良様、美土里様、親戚一同、並びに田中様にも宜しく御伝へ願ひます。

小生への手紙の住所は Sr.Ricardo Valian  Apartado Postal *2400 Mexico.D.F. にして下さい。

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明治三十九年(1906年)一月六日 土曜

曇。霙に似たる雲ちらりちらり。

行事交際 午前七時起床、石川君宅にて雜煮の饗應を受け、十一時ここを辭して爲二殿の宿なる中島さんにゆき、母上より年玉みかん十個を呈して、母上と予との年禮を申しのべ、爲二殿に會して、開田一件に關して我家の耕地の處置問題解決の模様を告げ、長岡町にをらるゝ前田繁之助君へ年玉として兩人にて、白米一斗を呈する事とし、現下同君も白米の貯あるべければ、包にはたゞ白米一斗と書したる紙札をさし入るゝに定めて、之が包をしつらふ。正午、辭し去らんとしたるに中島さん主婦の御前祝酒を饗せんと申されければ、いなむも失禮と思ひ、玄關よりひきかへして之を受け、かつ晝食をもいたゞき午後一時に近き頃、こゝを出でたちて長岡にまゐる。

先づ藤田一石君を訪ひ、風呂敷壹筋〔代價十五錢位〕を年玉として呈し、年禮をのべ、四時前共に岡田嘯月先生を訪ひ、兩人して札幌ビール二本を年玉に呈し、年禮を申し上げ、日暮るゝ頃より九時迄酒肴、きりそば、餅なんどの饗應にあづかり、藤田君がりへかへりて泊る。

所感 岡田師、藤田君と酒宴中、畫道の談をたゝかはす。師は頗る氣焰高かり。

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長男よりメキシコからの手紙 昭和5年7月8日附

光果君、其後は如何ですか。色々と御手紙を有難う。此の兄に代って、さぞ大人になった事でせう。兄は今、数多の喜びの知らせを持ちました故、五、六日中に詳細を御送附致します。今日は只、メキシコの写真を御覧に入れる事に致しました。(写真と一緒に、ほんの少しですが、切手も同封致しました。)

お父様、お母様、咲良ちゃん、美土里ちゃん、登ちゃんなどに宜しく。

御身体を御大切に。

昭和五年六月七日午後九時認む。(土曜日)                   丈穂

                          外国名 テ-・エフ・リカルド・バリアン

光果 殿

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明治三十九年(1906年)一月五日 金曜

晴。

起居身體 午前十時起床、翌日午前一時過就褥。

行事交際 朝、小作人橋本源次、山下又五郎兩人を召して、三十八年度作地入附の勘定及び貸借物品金錢の勘定をなし、午後二時に至る。

午後二時前、阿部吉藏氏は辭し去らる。此後支度をとゝのへ我家をいでたち、かねて招かれゐし川西村大字宮關雲外寺、石川君方の新年宴會にまゐる。招かれ來りしものは爲二殿、ちい殿なり。夕食後百人一首うたかるた會を催し、數戰の後、夜食に餅をいたゞき、本月二日以降の日誌を多忙の爲に記するをおこたりゐたれば、之をしたゝめ翌日一時過、石川君方に泊りていぬ。爲二殿、ちい殿はかへる。兩人は此地中島さんに宿をかりをるものなればなり。

本朝年賀状數通まゐる。

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長男よりメキシコからの手紙 昭和5年5月15日附

お父様、お母様、大変長い間御無沙汰し、誠に申訳御座いませんでした。

丈穂は此の永い間と言ふものは、お父様、お母様の御祈りの御蔭でせう、幸ひ健康でした。いや健勝でした。なれど実に大なる煩悶に襲はれ続けでした。其れに加へ、店が合資会社に変った為に、移動を続け通しでした。が、やうやく二、三日前より治まりましたから、今夜遅ればせながらも今迄の経過を急いで書き終へる事に致しました。時計は夜の十一時十三分前です。

扨て、光果への書状以来の事から御話致しませう。光果への書状には、あと四、五日目には次の詳細文を出すと認めましたが、生憎二日目程より、クリスマス前にメキシコ国のお祭があるとの事で、色々、店の飾りやら整理やら、仕入れやらに没頭しなくてはならなくなりました。其れに引続いてクリスマス(メキシコ国は非常に宗教の盛んな国です。殊にプエブラはメキシコで一番の宗教都市です。故にクリスマスは徹夜騒ぎの大祭なのです。)が来るといふので是れ又一層の努力で、店(佐田貿易商会はメキシコ市メソネス街が本店で、此処は卸売ばかり、小売はプエブラの支店丈けですから、祭の際は此の店に一番力を入れなければならぬと言ふのです。)は佐田主人夫妻及び金田氏まで応援に来ると言ふ有様でごった返しの毎日でした。

本店の方は、クリスマスの一週間前頃より、合資会社にしやうと言ふ話の下に会社員待遇でなく、吾々同様の資格で這入った人で、主人がアメリカ留学中に知合ひになったと言ふ今年三十三才の独身者(此の人は福岡県人であって、アメリカに四年、及びメキシコに三年ゐるといふ世間広い人です。)及び香川といふ四十四、五才のメキシコで一流のアヘンテ(方々の店から注文を取り、一割乃至五歩のコンミッションを取る人を言ふ。詰り日本のブロ-カ-です。)をして居た人(此の人はメキシコに廿年も居、且つメキシコ人と結婚をして子供が十三才を頭に四人有る人です。)と関田君とに任せておいたのです。 其の賑やかな忙しいクリスマスを過ごして間もない一月六日に、亦、サントルイスと言ふ大祭(これは子供が父母に御礼をすると言ふ、非常に懐しい祭日です。)があったので、是れ亦忙しく暮らして仕舞った次第です。

お年取りも正月も天絲瓜もあったものではありません。殊に小売店なので、其の頃は夜の十二時過頃迄、店を開けた事が屡々ありました。其れ等の忙しいお祭がやっと静まったと思ふ間も無く、合資会社組織になったのです。其れで本店の方は後から這入った物知りの堀田と言ふ人が金田氏と替り、金田氏がプエブラの店に来、私がメキシコ市の本店へ行き、香川氏の様な、アヘンテと言ってもコンミッション無しで、市内の大商店へ卸売に出かける役になりました。亦、関田氏は相変らず、荷造り役で、倉庫や店に居ります。此の様に店の者の移動が起ったといふ訳を御話し致しますと、金田氏と佐田奥さんと気が合はず、其の結果、奥さんの金田氏に対する言が、生一本の主人に行き、主人と金田氏と口論が始まり、金田氏は日本へ還れと迄言はれたので、金田氏も憤慨し、それじゃ、直ぐ還ると言って荷造り迄したのです。併し還ったりすると言ふ事は、世間の外聞が悪いとの事で、漸く治まりましたが、金田氏が年上の堀田氏、香川氏に指示する態度が、餘りに佐田の親戚を笠にきて威張ると言ふ事で、堀田氏、香川氏の機嫌を非常に損じたので、遂にそれではプエブラの私と入れ替った方が、煩く無いだらうと言ふ事になり、替った次第です。併し今猶、支店の金田氏と本店の堀田氏と香川氏との仲が内面非常に悪い事は、疑ふ餘地がありません。此の儘進まうものなら、佐田貿易合資会社も面白くない結果を来たす事だらうと、私及び関田氏、奥様等の頭の悩みとなって居ります。

殊に私が此の前途の暗影を見詰める時、私の将来の大小をも視、悩む次第です。其れに加へて、堀田氏と言ふ人は、メキシコで今迄と言ふもの、博打商売をやって居たので、其れ等の仲間が、毎夜十二時、一時、二時迄も二、三人づつ来て馬鹿話に耽って居るので、寝る事も出来ない始末です。関田氏の愚痴を借りて言へば、メキシコへ、人の経済(安費生活)の為に、自炊、小使をさせられに来たも同然だ。其れに最初の約束とは全然違ってると言って、何時も零して居ります。実際その通りなのです。

私と、関田氏は四十五円の月給ですが、別に室も与へられず、且つ佐田さんの方で食はしてもくれないので弱って居ります。殊にメキシコは非常に室代、電燈代、食料の高価な処です。レストランの(日本でレストラン通ひと言へば吃驚するでせうが、外国は其れが簡洋食堂なのです。)一ヶ月の食料が安くて三十円、是に女に一週々々ちっぷ五十銭(普通の人は一円が相場です。)としても四週間なので計二円、故に三十二円、風呂代一回が安い処で五十銭、其れに風呂屋附きの洋服に刷毛をかける小僧にちっぷ十銭、靴磨代十五銭、計七十五銭、毎日曜とすると四回故、三円、ワイシャツの洗濯代一枚十五銭、毎日汗染むのも構はず一週間着ても、四週間で六十銭。(洗濯する処が無い為仕方なし。)床屋一回分、高い処は一円五十銭、安い処は一円、一ヶ月一回として一円、洋服のプランチャ-(綺麗に拭いて、アイロンをかける事)が一回二円、一ヶ月一回とす。髪油、歯磨で月二円、是れが室代無しのぎりぎりです。故に友の附合として、サイダ-を飲んだり、一寸果物買ったり、絵葉書を買ったりしやうものなら一銭も残らず、借金の有様です。此の上に、此の上に、月一円の墨都青年倶楽部会費と(此の会では文芸部の委員をして居ります。)月一円の日本人会への会費とで二円、及びメキシコ語を教はって居るので月三円。故に自炊をしてやっと生きてる有様なのです。メキシコでは吾々のやうな安月給を貰ってる人は殆どありません。一寸家庭奉公をしてる者でも、室を与へられ、且つ食事も給へられて、月六十円、良い処なれば、百七十円位貰ってると言ふ有様です。故に自分としては非常に我慢が出来兼ねる程です。殊に共同生活をしてると、仲間同志の穢い競争心が起るので。

まあゝゝもう少し店の様子及び主人の心を視て見ませう。主人は生一本の人で、非常に短気な人です。若い時苦しんだ人には違ひないのですが、只、苦学位なので、広い社会に出ての苦しみ及び社交などといふ経験は無いやうです。縮めて言へば、少し小さいなりに固まった人です。なれど其の欠点の中の、生一本であると言ふ事が、主人の様子から推して、又、一方に於いて大いに伸びる可能性を持って居ると信じます。主人に仕へるもの、使ふ者の間には、非常に尊い哲学の根本があるを見、又経験するのが此の日々です。

今迄書いた様な事は、誰しも経験する事でせうが、私としては凡人なる者との交際、共同生活程、煩はしく、くだらない時間、いや自分の生命の一部分である時間を嫌々ながら費す事の大なるには、とても堪らない気持です。故に将来を思ふと、今の儘で行けば、私も凡人の一員で終りはしないかと危まれる次第です。

此の様な有様の処へ、家の幸福でない知らせを伺っては非常に心配でなりません。殊に病気などとは。又、金の事、是はやっと生きる丈の少ない給料なので、どうして見やうがないのです。其の上、見せ金は、店の救助金として貸してありますが、今の店の状態では、とても返して貰ひ兼ねるので弱り切っております。(為替の支払ひに負はれて居る為)

其れでも、此の間、合資会社になった時、ボ-ナスとして五十円株を三株貰ひました。なれど株券なので、お送りする事も出来ないので、遺憾に思って居ります。

まあゝゝ、その中に良い事もありませう。いや、その良い事がもう見えて居ります。故に今迄舐めて来た苦悩は大なる成功を為さんとする私には、屁でもないとしても、第一に心配になるのは、故国に居られるお父様、お母様、弟妹の健康の如何ですから、何卒健勝で、私の帰国の暁を、御待ち下さる事を御願ひ致します。どうか私の事などは決して心配せず、お身体を御大切にされん事を御願ひ致します。

光果殿、登君、咲良ちゃん、美土里ちゃんへも御身体を御大切にと御伝へ下さい。

では今月の末に亦御手紙を差上ます。

昭和五年五月十五日午前二時認む。                     丈穂より

お父様へ 

お母様へ

追述

・徴兵檢査の猶豫願ひは、去る一月廿五日に届けました。

・見せ金は店の様子を見て、一刻も早く返して貰ひ、至急御送附するやうに致します。

・お父様よりの御芳書は第返信迄戴きました。

 又、光果よりの大東京の繪葉書も、無事戴きました。

・私の名は、あの元のテー・エフ・ラベノス・バアーミリアンは、メキシコ語には一寸当嵌まらないので、テー・エフ・リカルド・バリアンに致しました。リカルド〔スペイン語。英語ではリチャードと言ふのです。〕は非常に良い名前ださうです。〔T.F.Ricardo Valian〕

・光果殿へ外国切手を同封致しました。

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明治三十九年(1906年)一月四日 木曜

Photo_8晴。

起居身體 午前九時過起床、身體は疲れたる氣味なれど、さほどに衰えたりともおぼえず。

行事交際 朝食を喫する頃、すでに日中の説教に詣で來るもの多し。朝食ををへ支度をとゝのへて、池田紀宗太氏へ年禮の爲に出でたつ。此時十一時過にして説教ははじまれり。池田氏に至り例により手拭壹筋を呈して年禮を述べ、同家が一昨年火災にかゝり、昨年新築なりしものゝ屋内を一覽し、辭して、阿部氏に行き、佐々木家の耕地の處置問題及び東京移住問題につき一應の協議をなし、午後二時同氏に請うて、共に脇川新田村協議會に出席す。協議は午後三時に至りて會するもの阿部氏を除きて十七名となり、こゝに閉會し七時終る。予と開田者との交渉協議の結果、佐々木家の耕地は一括して向島中脇川新田耕地の北端にとりまとむる事と決し、予が意の殆どみちたる協約成る。此時阿部氏は耕地の實地について、予が不案内の點をきかまほしく、顧問として立會を請ひたるにて、之ありしにより大に協議も進行し、早く決定をみるを得たるなり。

歸宅後直に阿部氏と共に夕食を喫し、母上、姉上と四名して炬燵を守りて協約の結果をものがたり、次に東京移住の諸件につき協議し、翌日一時過就褥す。

所感 本日の交渉協議は頗る其協約の結果よろしく、予はステッセルが露國の講和全權委員として勝利を得たりしかの如き思をなしぬ。

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長男よりメキシコからの手紙 昭和4年11月22日附

光果君、暫く御無沙汰致しましたね。皆様は別に御変りありませんか。僕は相変らず丈夫で、それはそれは眼の廻る程忙しい暮しをして居ります。それが為、メキシコ到着無事の手紙すら、お出しする事が出来ませんでした。どうしてそんなに忙しいのかといふとマンサニヨ港に到着したのが102日の午前7時頃で、メキシコ市へ到着したのが5日の午前10時半頃なのです。それで此の手紙を出さうと思ひましたが、店が忙しいのと、非常に身体が疲れてゐたのと、金田様がお父様、お母様宛に無事安着の手紙を出して下さったので、さう急がないでもよいと思ひ、書かずにしまったのです。ところが、その翌日も翌日も店が忙しいやら、メキシコ市迄一緒に横浜から乗船して知合になった人が、別の処へ赴くので見送りに行ったりして、ついつい10日迄は一寸の隙も有りませんでした。殊に店で自炊もやってゐたからです。併し関田氏は店の忙しいのも構はず、方々に手紙を書いてゐました。僕はその間も一生懸命に働きとほしてゐたのです。其の熱心さや、色々の行為を主人の佐田様が認め、十一日の朝、僕に一つ店を持たせやう、君なら大丈夫だから、とおっしゃったので、僕は大事なスペイン語を話す事が出来ないながらも、必ず立派な店にして見せるといふ堅い決心の下に、直ぐ承諾をしたのです。

それ故、此の僕が持つ店が最初の支店であり、且つ僕が最初の支店長なのです。で、早速十一日から十三日迄は本店(メキシコ市メゾネス街七十七番地、支配人金田様)に無いところの色々の品物を、字引を引いたり、金田様に尋ねたりして、外人(主にアラビア人、メキシコ人)や日本人の商店に仕入をしに行ったのです。(品物の名すら判らないので弱りました。)

一方、佐田様は自分の本宅(メキシコ市オカンポ街)は僕がメキシコに着く五日前に引拂って、プエブラ市に引越されたのです。メキシコ市から自動車で(日本の急行列車位の速力也)三時間半位行った処の、人口約二十万、メキシコ第三の都市であるプエブラ市に十二日の夜帰宅されて、翌日にはその市の中心点に位する道路に面した5deMaya5033Aの家を(家と言ってもアパ-メントの大きな店と、奥に同じ広さの窓一つ無い真暗な倉庫があるだけです。併し其の倉庫の片隅には大小便所と顔を洗ふ処が有ります。それは特に僕が其の真暗な、だだ広い倉庫の中に寝起するので、家主に附けて貰ったのです。)一ヶ月百五拾圓のを百貳拾圓に負けて借りる事に決めたのです。それで僕は店に大棚を造ったりする為に、関田氏を連れ、十四日は午前三時に起き、五時半に支店に向かったのです。その途中の有様、例へば群羊を追廻す牧童と擦違ったり、或は大道路(メキシコ市よりプエブラ市迄はコンクリートを流した幅の廣い立派な道路が続いてゐるのです。)を一杯に塞いだ牛や馬や、薪を山盛り背にした驢馬の群など、日本では見られぬ様を細かに今書こうかとも思ひますが、それは五日後に其等の事から、メキシコの風俗、習慣、日本人に対するメキシコ人の感情、僕の日常生活等を詳かに記してお父様、お母様宛に差上げますから、どうか其手紙が着いたら御覧下さい。扨て其の自分の店に到着すると、直ぐ、材木や、鉄槌や、釘や、鋸や、箒や、笊や、ペンキ等、いやはや、多数の物を、字引を引いたり手真似をして買ひに廻りました。二人は朝方早くから夜晩く迄、真黒くなって店の造作を十月廿日迄懸って造ったのです。併し関田氏は十七日の午後メキシコ市へ帰ったので、後の日は一人でやったのです。その餘りの労働と寝不足と、気候に慣れないのと食物の変化とに依って廿一日は四十一、二度の熱が出、夜晝ひっきりなしに下痢をし、自分の言ふ事が耳の鼓膜に響くといふ始末なので、自分ながら死ぬのではないかと思ひました。殊に壁が崩れた、天井が染みだらけの、だだ広い倉庫の中に、たった一人で熱い重たい疲れ切った身体を、グッタリと横たへ、頭の右側で、とろとろと揺らぐ蝋燭の光を、熱い赤い眼で見詰めた時は、丁度次の様の気持でした。

夜更けて獨り燈前に坐す 哀思悠々堪ふべからず

眼底涙あり、落つるにまかす 天外雲あり、吾を招く

メキシコでは家を借りる人が、電気屋を頼んで電気を引くので、引越す時には、皆外して持って行くのです。それで僕もプエブラに着いた日、電気屋を捜し見附けて、早速引くやうに頼んだのですが、メキシコ人の癖として、五、六回催促しなければ来ないのです。其の大事な特徴を知らなかったので、明日は来るだらう、明日は来るな、などと待ってゐたのですが、とうとう来なかったのです。それでベッドの頭の近くに置いた木箱の上に、二本の薄暗い蝋燭を備へてゐたのです。併し現在は明るい電気が引いてあります。

翌日はお昼頃起きて、ふらふらする身体で十五分時許り程離れた処にある佐田様の家に行き、身体の状態を話したのです。佐田様や奥様等は非常に心配され、医者に明日あたり診て貰ったらとの事でしたが、其の日の夜からは、幸ひ下痢も止り、翌日は良好、その翌日は猶良好といふ状態、其の中に佐田様が出した手紙を見た、メキシコ市の金田様からは薬を送って下さるやら、其の上関田氏が廿五日に来てくれたので、非常に助かりました。併し彼は間もなくメキシコ市へ帰ったので、それから今迄といふものは、一寸の隙もなかったのです。今日からは佐川と言ふ廿五才の人を一人店番に雇ひましたから少しは楽なのです。時々は佐田様の奥様が手傳ひに来て下さいました。併し女の手傳ひ、殊に見識が高く、常識の無い人なので、(なぜなれば育った家が非常な財産家だからです。)却って頭を用ひました。

店は日曜日も休みなしで、朝方の七時に開け、夜の十時に閉ぢるのです。それから十分時許り行った処にあるレストランに喰べに行き、家に帰って一日の整理を済ませると、十二時になります。

店で売ってる品物は、セルロイド玩具、歯ブラシ、絹ハンカチ、首飾り、等が主で、他種々の物です。

餘り晩く迄書いてゐますと明日の仕事に差支ますから、是で打切ります。メキシコ市及びプエブラ市は七、八千尺の山の上ですから、気圧が薄いのと、非常に乾燥する為、皮膚は荒れ、唇は乾き割れ、其の上一寸前迄は毎日の様に鼻血が日に二、三回出ました。併し一つには身体に無理があった為だと思ひます。此の頃は非常に身体を大切にしてゐるので、偶にしか出ません。此の様な有様ですから、寝不足をしないやうにしてゐるのです。

唯、此の手紙を書いた理由は、餘り御無沙汰し過ぎてゐるので、気に懸かるのと、一つは同封の切手を差上げたい為です。ではこれで後便を御待ち下さい。

お父様、お母様、咲良ちゃん、美土里ちゃん、登ちゃんにどうか宜しく御傅へ下さい。

                                       19291121

且つお父様、お母様に十二月の初め迄に、電報為替で五拾弗程(日本金百拾円位也)お送り致す豫定でしたが、電報為替を組むには参拾円いるといふ事が判りましたので止め、其の代り米貨弗紙幣を一手紙毎に拾弗乃至五弗づついれて、十二月末迄には総計五拾弗程御送附致しますといふ事と、非常に身体に適さない処ではありますが、幸、耳の後ろは腫れませんので、御安心下さいとの事を御傅へ下さい。

終りに臨んで皆様の御健康を御祈り申上げます。

昭和四年十一月廿二日 午前発(金曜日)                    丈穂

光果 殿                                  (第二通信終り)

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明治三十九年(1906年)一月三日 水曜

明治三十九年(1906)一月三日 水曜

雪。風は前日に比すればやゝやはらぎたれどなほ雨戸をゆすり雪をとばす事頗るしげし。

起居身體 起床午前九時、數日來の疲勞あり、睡眠不足ありたれば起床をおそくす。

行事交際 朝食を喫して与板に行き、兄上より送金せられし金拾圓を郵便局にて受取り、八百屋木村さんに至りて年禮をつとめ、二三の買物をなし、尚佐々木家は愈東京移住に決したるを告げて歸宅す。

本日長岡の僧の林某の數日前より脇川新田に説教の爲來られしものを請じて泊さす。夜説教あり。予は惣代清水儀三郎氏方に行き、代人、山崎氏及び同家に來合せゐられし惣代森善三郎氏代人同乙五郎氏に對し、佐々木家が村内開田事業に加盟せず、あくまで舊の畑地にすゑおくについては、耕地を如何に處置すべきか、一括して一所にとりまとむるか、若しくは村内にて耕地全部をひかへ作り呉るゝか、又は全部かひ受け呉れざれば、開田上、畑地を混じおきては甚しく相方〔開田者、非開田者〕不便多からん故、前提議の三者中の一に是非共開田成功前に決せられたきを請求し、かつ是迄開田事業に關し、佐々木家が之に贊せざるより種々なる故障、異議らしき事を佐々木家及び同小作人に對していひかけたる事を詰る。之によって惣代二氏は明朝午前より村協議を開き、提議の件を決定する旨答へたれば、予も出席するを約して午後十二時辭しかへり、此談合の逐一を姉上に傳へ、かつは東京轉住問題につき種々協議をなし、翌日午前二時といふにふしどに入る。姉上は本日午後實家よりかへられたるなり。

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長男よりメキシコからの手紙 昭和4年9月14日附

0510_3   ハワイより Hawaii Hilo

豫定通り913日の午前73分ホノルルに無事寄港致しました。出發の際は多大の御深意に預り、到底口筆にて御禮を申上盡くす事が出来ません。それ故為するに對し出来る限りの本分を盡くして行き、飽迄も吾が最初の希望を完徹する事に依って御禮申上ぐる次第で御座います。それも一日も早く。(併し此の早くといふ意は私としてはあせるの意ではありません。)

右の真心からの言を持ちまして91日の御見送りの御禮と致します。

何れメキシコの佐田様へ到着次第御詳細申上ます。それ故、此の手紙には関田氏との付合、船中の様子、太平洋の様子、ホノルルの様子等を簡単に御話し申上ます。

{関田氏}

A、思ったより氣が大きく物事に餘りけちでない事。

B、思想の相寄る処がある事。

是等の結果、非常に氣が合ひ、将来共に相助くる友人、いや義兄弟ともいふべき友になれると思ひます。彼も此の夢は同感であると思ひます。それは全ての行ひで判ります。

{船中の様子}

A、洗顔

水の出る時間が定って居ります。

午前6時半より7時半迄。

午後4時半より5時半迄。

B、ラジオ新聞が貼り出されます。

(無線電信にてのもの)

11日には東京に大暴風雨があって、何でも須田町駅の屋根が吹き飛ばされたり、方々に浸水があったさうですが、別に御変りは御座いませんか。

C、おふろ{湯の事}

午前9時より10時迄 男

10時より11時迄 女

併し毎日はなくて11回の割。

D、食事

大勢で食するのです。

御飯、汁、茶、沢庵漬、薤、生姜、梅干、是等は幾らでも御代りが出来ます。

但し、汁は朝食だけ、その代り朝食以外の晝、夜は魚、肉、野菜などの煮染が一皿あります。

朝食午前7時半、晝食午前11時、夕食午後4時、是等の合圖は鐘が鳴ります。

E、寝起きの規定時間なし。

次にホノルル迄の簡単な日記を御示し致します。

午後1時半、沖にて検閲あり、3時半頃済みました。

此の間碇泊。

3時半より速力1時間13哩平均で一路ホノルルに向って進行、4時半頃より四面蒼海、海面(水平線の事)が円く見え、空にたなびく雲は雲で、矢張り円く覆ひ被さって来る様に見えました。{以来同じ}

二日、晴天、時計を40分進ませろといふ貼紙が出ました。{毎日20分づつ進ませる事になって居ます。}

飛魚を沢山見受けました。{以来毎日}

三日、午前9時頃迄雨で、後晴天。此の日はおふろがありました。

四日、晴天、夜9時頃、遥かかなたに、小指程の明りのついた汽船を見受けました。

五日、晴天、夜7時半より9時半迄、面白い活動冩真がありました。此の夜、初めて三日月を見受けました。{此の夜以来毎日見受けました。星が海面に浸るかと思ふ位の低い処に見えますのが沢山あります。}

六日、晴天、夜8時半より沖縄県人や支那人等の空手術及び黒人(名はブレンテイノ、スペイン語と英語が出来る人なので、友の様に話合ってゐます。年は二十七才、背丈五尺四寸位でパナマに行く人です。)と沖縄人とのボクシング(拳闘の事)等を月夜の甲板の上で楽しく見ました。

七日、晴天、別状なし。

八日、晴天、〃

八日、晴天、〃    {百八十度の処を越したので八日が二度ありました。}

九日、晴天、九月十一日夜八時より第五号室(吾々の三等船室の事。第一、第二、第三、第四、第五号迄、皆三等ですけれど、室が別れてあるのです。)の有志等を集めて懇親会を開かないかといふ事を私と向山{此の人の名刺を此の手紙中に入れて置きました。どうかしまってて下さい。年二十九才}との二人で相談し、幸にも纏める事が出来ました。

十日、晴天、午前八時頃、私が書いた懇親会のビラが船室に一枚づつ貼りだされました。午前九時から十時までおふろがありました。夜七時半より九時半迄面白い活動冩真がありました。

十一日、午後一時頃より室の飾り{旗やカンナ屑で出来た、美しい鎖やうの物等}を大勢で致しました。夜、八時頃より後藤船長、事務長を始め、吾々合計四十三名集って、盛大なる懇親会を開きました。中には黒人{ブランテイノ}一名、ロシヤ人一家族{父三十五才位、母三十才位、女の子供十二才位、同妹八才位、彼等もメキシコ市へ行くのです。此の一家族とも付合って居ります。メキシコへ行く人は合計十七人居ります。}等が加ってゐるので仲々愉快でした。

私は國木田獨歩集中の色々の詩吟{八種}や種々の歌を発起人故、しっかりやって皆をあっと言はせました。{私は飽迄も皆の頭となるやう、かつ認められるやうに務めて居ります。}{餘り出しゃばらずに、要領良く。}

十二日、晴天、ヱハガキの裏に八日から書いて居りました、色々の御禮旁々報知の文を復読致しました。合計三十七枚。{家のは別也}

十三日、晴天、午前七時半迄に朝食を済ませ、八時、甲板上に洋服をきちんと着て整列をなし{乗船者一同}ホノルルからの検閲官の検閲を受け、午前九時半に済みました。{入港七時三分、併し桟橋に横付けになったのは九時四十分}ホノルル市を甲板上から見てましたが、それは美しい小じんまりとした街でした。上陸をするには千弗{日本金で二千百六十円也}を米国政府に積立てせねば出来ない事になってゐるので、一等船客二、三名の外は皆甲板上から見てゐるのです。ハワイ島は見た処、平原少く山の多い処でした。

太平洋の様子

日本の近海は波荒く、二日目は非常に薄らぎました。

五日目当りになりますと、海の色が青黒い色を呈してゐました。

十日目近くになりますと、紫の色、ホノルル近海は黄みを帯びた薄黄青です。

太平洋の大波{風の無い時でもあります。}は非常にゆったりしてゐるので、さして船は揺れません。それに好天気続きだったので乗船者{支那人約百八十名、ペル-行きは毎日博打ばかりして暮らして居ります。中には十三才位の子供も交って居ります。船では外人だけは許してあるさうです。沖縄人約六十名(ペル-行き)、内地人約六十名(ペル-行きが大多数)、船員約百名}の中に船酔をしてる人は僅に五名位しか見受けませんでした。勿論、関田氏も私も船酔などは致さず、非常な元氣で暮して居ります。

皆様は別に御変りはありませんか。と言っても隔路が餘り離れてゐますので、考へて見れば非常に心細い事です。それ故以前以上に、身体を大切に致しましょう。

今此の手紙を書いてる場所はお父様やお母様の御覧になられた室とは違っ