明治三十九年(1906年)一月二日 火曜
雪。強風に白砂の如きこまかき雪まじり吹雪窓をおそふ。
起居身體 寒ければ痔疾の苦もいさゝか感ぜられる。起床午前七時前にて、昨夜十二時過就褥したれば、ついに睡眠を過分にむさぼりしにはあらねど起床おくる。
行事交際 朝より午後五時に近き頃まで、昨年末渡辺繁雄君〔不仙と號す〕より依頼せられたりしワットマンペーパー〔繪はがき臺紙〕に水彩畫をものす。畫は予の能せざる水彩なれば成績不良、日暮に至りてやうやく仕上げ得たるもの僅に三葉に過ぎず。午前十一時過新開地に住する吉田惣藏といふものより、きり蕎麥一重を贈らる。此かへりに蠟燭二挺を遣す。
午後五時過、東京なる兄上宗吾さん、甚五郎殿、阿部謹三郎君其他より年賀状着す。兄上よりの書中に、かねて交渉しおきたる佐々木家東京へ移轉の件につき返事あり。愈、荒巻地内に有する耕地の外脇川新田地内にある耕地全部と家等とを賣却して都合の成り次第、東京に移住する事に決した故、其意を以て萬事取計らはれたしと、又金十二圓を送らる。
甚五郎、阿部君より繪はがきを予と爲二殿と松本實君に贈られ、かつ予が兩氏上京せられてより以來語らふ友を失ひ、頗る寂寞を感じ此休暇には歸省するも、爲二殿さへ歸宅せずしてさびしき事のみなれば、學校籠城すとの事にいたく同情をよせられ、予を頗るなぐさむべき事どもかきつらねらる。
午後五時過、蒼惶歸裝をとゝのひ風雪ををかし、日すでに西山に没し四面朦朧たる頃、校をたち出歸宅す。家には母上と重義殿、榮殿と炬燵を守り、いとさびしげに何事か語りゐられしが、予の歸宅したるをみて頗るよろこばれ、母上は予が數日前より痔になやみをり、ことによらば長岡町井上病院に入院して治療を受けん心算なりなど、もらしたることありければ、若しやそれを實行し、今は病室にありてさびしき松の内を暮すかなどと、いたく心を痛めゐたりなどかたる。あゝ親を思ふ心にまさる親心なり。予の痔疾も近日は頗る平瘉に復し、昨年末、渡辺醫師の診察を受けたるも、治療の必要なしといはれしと答へたれば、いたく安堵の思をせられぬとみえたり。それより粥のあたゝめかへし、豆腐汁、燒鹽引などの獻立なる夕食をいたゞき、兄上より申し送られたる東京移住の件をかたる。母上は東京生活は、耕地全部を賣却せざれば困難ならざるかとて、頗る不安の念をおこされたる様にみゆ。姉上季崎なる實家阿部さんにまねかれ、今日午後与板町に買初に行きてかへり、夕方に至り虎雄殿をつれて同家へゆかれたりと。
所感 あゝ此家庭の何ぞさびしきことよ、時は正月なるに、母上はたゞ二人の兒童と屏風をたてまはして炬燵を守りつゝ、麻紡みゐられし事よ。
兄上よりの送金につき、兄上の辭に曰く。少金なれど財布を捻りて出し得たるなれば、惡しからず御受取りありて母上様へ鹽引の一切も多く差上げくれとあり、母上に此事を申し傳へたる時、母上もいたくよろこばれ龜三郎は上京以来未だ一文の金も送りし事なく、たゞ乏しき財政をわれに委せたりしが、今送金したるか、これでこそ我子なれと。ああ子たるものいかにへだたりをるとても、親に對する實質上の孝養も怠るべからざるものかな。
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