明治四十年(1907年)五月十三日 月曜

風雨と晴。

起居身體 午前六時起床、午後十時廿分就褥。

見聞行事交際 昨夜、鼠の爲に冬服上着の右ポケット外を喰ひ破られ、臨時に開襟服を着し、校用にて長岡へ行く校丁に託して修繕方を命ず。校丁長岡より學校用大算盤、窓掛等を持參す。脇川新田向島神明社獻納の旗二向の揮毫を委囑せられ、午後五時頃書き終る。之が使として金子彦藏老、和田富五郎の兩人來り、墨の用意、地質摩擦等をなす。揮毫に先立ち彼等は御神酒と稱し、酒一升、菓子一鉢を調ふ。一傾一喫の後、揮毫し終って、また予と中西君とは菓子を喫す。

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明治四十年(1907年)五月十二日 日曜

午前曇、午後風雨。

起居身體 午前六時半起床、歸校、午後。

見聞行事交際 重義弟午前八時廿分長岡上り上野直通の列車にて立つを見送る。兄上、宗吾兄上、甚五郎弟、阿部君への土産を託す。

妹よりの我校生徒長岡へ旅行するを、日々待ちゐるとの書到着す。

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明治四十年(1907年)五月九日 木曜

晴。

起居身體 午前六時十分前起床、午後九時四十分就褥す。

見聞行事交際 本日教員住宅敷地、石かちをはる。其序に前庭窪地へ土を上置す。樋口虎吉君、川袋校を辭して長岡市役所書記に就職すとて、來訪し別れを告ぐ。よって君の爲茶話會を開き送別の意を表す。

在京兄上、宗吾兄上へ重義弟上京の件を報ず。爲二弟へも報じ、兼ねて十一日貴方へ、同人及び母上一泊がけに押しかけ給ふもあらんとの意を申送る。

當地方昨今、鯉魚の漁、豐かなれば、本日之を一貫目餘購入して、夕食の膳にて其美を賞す。

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明治四十年(1907年)五月七日 火曜

雨、信濃川大洪水。

起居身體 午前六時十分起床、歸宅午後。

見聞行事交際 桜井赤城君より來書あり。過日來の左腕腫物を癒せず、同腕全く不随意にて、治療するも容易に快瘉の見込もなければ、已むを得ず京都出發、東都に出でて、名醫の診療を受けたり。然れども京都大學醫の見立と同一なりし故、博覧會等一覽の上、去月十九日歸國したりとの報あり。いとゞ遺憾のことゞもなり。

重義弟の件につき母上、姉上と協議すべく、午後六時半學校出發歸宅す。母上、姉上と協議したる結果は次の如し。

重義弟を本月十二日上京せしむ。衣類は反物のまゝ持參せしめ、夜具は持參せしめず。

今夜尼二名泊り、夕食後讀經をなす。かれらの本意、果して眞に佛に歸依しゐるものか。

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明治四十年(1907年)五月四日 土曜

快晴。

起居身體 午前六時半起床、午後十時就褥。

見聞行事交際 本日午前藤井屋主人請負にて校の玄關前なる松樹を、南方教員住宅前へ移植す。午後一時より高等科及び尋常科の體力優等兒童を使役して、前庭圍堤を修繕し庭内の窪地へ土を搬ぶ。但し高等科女子は花畑草取の任に當らしむ。五時廿五分豫定の工事を終へ解散せしむ。職員慰勞として菓子を、校丁にも手傳はしめたれば其慰勞として酒一合餘を供す。兒童へ菓子等を分與するは教育的ならざる感あれば、遊戯道具を新調して與ふる事とす。

東京兄上より、重義弟に關しての細書の趣了承、愈御意見の如く決したれば、至急宗吾方へ遣はす様取計らはれたしとの來書あり。

校丁に對し小使心得を説明し、實施の旨を言ひわたす。

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明治四十年(1907年)四月廿六日 金曜

晴、暖氣とみに増し、氣温七十度を示す。

起居身體 午前六時十分起床、脇川にて午後十一時就褥す。

見聞行事交際 全校兒童を引率して、川袋校迄遠足し、零時五十分歸校す。一行に異常なし。午後は休業す。校務整理の後脇川に歸る。重義弟の前途問題につき母上と協議せん爲なり。母上は本月十日過荒巻へ行き給ひしが、本日歸宅し給ふと聞きて歸りしに、十七日に歸宅、毎日予の歸宅を待ちゐ給ひしと。母上と協議の結果は、本月五日の立案と同一なり。母上の重義弟が前途に對する憂慮、察するに堪へず。

本日歸宅の序に川袋校に立寄り、庭球をなし、また阿部君を訪れて上京歸國の見舞をなす。

舊臘中、妹の血統不純なりとの説をなしたる者ありて、木村叔父君より、服部八十八君に依頼して、探究し呉れられしに、全く無根なり。純潔なりとの事判明したる旨、報ありしを母上より傳へらる。あゝうれし。

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明治四十年(1907年)四月十九日 金曜

晴。風あり沙塵まひ立つ。

起居身體 午前六時半起床、午後十時就褥す。

見聞行事交際 午前十時過、古志郡役所書記岩田君、視學の代理として來校せられて、我芹川校成績現況を取調べらる。

脇川より使來り、飯米一斗と野菜、阿部大人の預かり來られし宗吾兄上よりの手紙と牛罐小一箇と淺草海苔一把、阿部謹三郎君よりの繪はがき三枚とをおくり届く。

午後學籍整理を終へて後、職員四名にて庭球會を開く。こは今年の初會なり。

所感 一昨年の今日は病後の衰弱ありて、身體の健康尚舊に復せざるを、つとめて歸校し、午後はげしき瘧にかゝり、妹と山本かづ子との看護を受けたりし日なり。

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明治四十年(1907年)四月十六日 火曜

大雨。

起居身體 午前六時四十分起床、午後九時半就褥。

見聞行事交際 午前脇川より使來り、米と赤飯及び煮〆とをおくりたまはる。本日は我脇川新田村社祭なれど、天候よからず、かつは明日教員協議會もあり、校務多忙なれば歸宅せざるなり。十六聯隊内近藤泰次郎君、高橋君よりはがき状來る。

脇川の使、次の二書をおくり届く。こは一昨日歸國せられし阿部大人夫妻が、東京より預り來呉れ給ひしものなるべし。

兄上より要に曰く、重義弟前途の方針については、宗吾殿、甚五郎殿とも協議したるに、

一、今宗吾殿方へ送りて店員として召使ふも、彼が前途の目的、八百屋店にあらずとせば、既に年齢も相應に長じをる事なれば、不利なる點あらん。何となれば遠からず徴兵に當るべく、さすれば愈前途の目的に進むに於て、中途に時を徒費する事とならん。

一、故に速に理髪業者か西洋洗濯業者たらしむる目的を立て、其の方へ弟子入りなさしむる方、可ならん。

一、しかし同弟は勉學の功を積みて尋常科正教員となる見込ありや。若し之あらば、阿弟許〔予が事〕にて之を教育し、一年講習科へ入學せしむる方針をとらしめたし。東京三者の意見は以上の三者なり。然れども同弟一生の大事なれば、尚熟考すべからんも、阿弟は篤と母上と協議の上、其意見を定められたし。

上の提案、予の提案を未だ了解なくてのものならざるか。

長岡女子師範學校三二學年生有志は、本日博覽會觀覽の爲、直通にて上京の途に上れりと。妹は一行に加はりしか如何に。

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明治四十年(1907年)四月十一日 木曜

雨ふり風ふく。

起居身體 午前七時起床、午後九時半就褥。

見聞行事交際 次の書到着す。

兄上より、重義弟は同情に堪へざる事ながら、退學せしむる方、むしろ策の得たるものならん。尚其前途の方針については、宗吾、甚五郎兩君とも協議の上、意見を申送るべしと。九日附。

千代子妹より。去ぬる七日來訪の禮、女子師範にては今後、書翰の往復及び來訪者の姓名を帳簿に記載する事となり、尚今後は書翰の往復を成るべく減ぜよと申渡さると。御談しの人の斡旋を諾して、女子師範嘱託教師となり給ふとの事は、或は成功するやもしれず、然れども、こは望ましからず、何となれば當師範生徒は一體に教師に對して不從順なれば、必ず其心慊らざるべければなりと、此書さく子君への分と同封にて、九日附。

夜業に教授案を編製す。

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明治四十年(1907年)四月九日 火曜

快晴。

起居身體 午前七時十分起床、午後十時就褥。

見聞行事交際 兒童と獨楽をうちあはせ愉快に遊ぶ。自習、大學研究。

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