あとがき

Photo_4  将来身を立てるには、第一に国語漢文、第二に絵画、第三に法律と、父は法曹界に入った長兄への手紙に書いていますが、その国語漢文はもちろんのこと、絵画というのも、あくまで教師としての立場を基本にして考えていたものと思われます。そして、その六十余年の生涯を律していたのは倫理修養の四文字で、これは主として幼少から学んだ四書五経の教えと倫理書仏典の考究から来ていて、母との婚約を破棄しなければならないかという危機にも、倫理書を読んで自らを慰めているように、一生その意思は変わりませんでした。

漢籍に親しんだ文章は簡潔明晰で、長野旅行の際の紀行文等は韻律にも富み、日本外史の格調に迫るものがあると思いますが、いかがでしょうか。また書画の習得研鑽に、日夜その努力を傾注していたことは、克明な日録にあるとおりです。たゞ惜しむらくは教師としての本分領域をいかにしても踏み越ええなかったと共に、天もまたこれに逸材を与えたまわなかった為に、遂に大成を見なかったと言えましょうか。然しながら、その身に備わる廉潔篤実な人柄を汲まれて多くの人士、中でも書家では、師と仰ぐ日下部鳴鶴先生、田代秋鶴氏、岩田鶴皐氏、画家では小林呉橋先生、荒木十畝氏、野生司香雪氏、教育界では高島平三郎氏、宇野哲人氏、宗教界では暁鳥敏師など、又、人間国宝の彫刻家佐々木象堂氏などの知遇を得ることができ、又よき友人知己と教え子に恵まれた一生は、われわれが考えるほど不幸ではなかったのかもしれません。

何事にも礼節規律を重んじ、酒に酔うことを嫌い、友人と遊郭を視察して「不快なり」と言い放つ姿は、固いだけの道学者に映りますが、家庭では家族は勿論、來客と茶菓を傍らに冗談の花を咲かせることが多かったのを思い出します。弾いたオルガン、吹いた明笛がどんな音を出したかは別として、風邪を冒してテニス、ピンポンに汗を流し、正月には同輩友人とかるた、トランプに興じる姿があり、芹川小学校在勤時代、校長とはいいながら六畳一間独身の侘住まいに、逃げ回る鼠を討ち取って快哉を叫ぶ様子は、つい笑ってしまうほど愉快です。余談に及びますが、この鼠族は、父の死後私の不注意もあって倉庫にしていた二階の押入れに跳梁し、日記その他の紙類を喰い千切り復讐を遂げました。ここに収めた日記はその残りの中からの抄禄です。

しかし、鼠害を免れた分だけでも三十一年間に書き継いだ日記の量は膨大で、その全部はとても収載できず、父の生涯中、妻を娶るまでの最も気力充溢した、いわば幸福な時期に限りました。母への愛の告白、求婚、婚約をとりつけるまでの涙ぐましくも幸せな日々、そして好事魔多しと書かれている通り、事起きて暗転、その後も二転三転、悲嘆のどん底から、血書までして漸く兄を説得して成婚の日を迎えるまでの経過は、読んでいただいた通りであります。後年、五十代には常にその病身を労わってきた妻を亡くし、更に人力車事故の後遺症、書道雑誌出版事業の失敗などの苦難の上に、頼みとする長次男を喪い、病苦に耐えながら最後まで誠実に生きることしか考えなかった姿を目の当たりにした者にとって、今この記録を刊行できることは、せめてもの慰めであります。

本来ならこの記録については、父を知る然るべき人に「あとがき」をお願いするのが当然なのですが、最早、皆様鬼籍に入られた方ばかり、やむなく愚生が身贔屓の贅語を記すことになりました。ご了承をお願いすると共に、種々のご援助をいただいた方々に厚く御礼を申し上げ、筆を擱きます。

二〇〇三年 三月 末日               三男   

明治四十二年(1909年)十二月卅一日 金曜

快晴。

朝食後一寸整理をなし市場へ行き、しめ、三寶、鉢及馬場君への進物其他、としや正月用品をかひ、また榮所通八百屋にても年賀状用葉書其他をかふ。校丁本間、繪絹はりし枠及び段張等を藤田よりこゝに運び呉る。之に校長への歳暮進物を托す。妹子は朝より大晦日晩餐の料理にせはし。午後同人も一寸市場へ行き食品等をかひ來る。

斎藤大人より封書あり。過日來車に對し禮あり。かつ千代子の意思につきさきに提出の條件に向て如何の模様なるか、よくたしかめていそぎ報ぜられたしと。

人まねながら夕刻迄に門松を柱にうちつけ、小さき七五三を床の前にたれ、小さき三寶に小さきおそなへをかざり、神に御酒をそなへ松とゆづり葉とを活く。かくて豫定の晩餐料理も調へたれば、羽織足袋などめして香を薫じ、神佛を禮拜し、妹子と相對して祝杯をあげめでたくとしをとる。あゝ建國創業の第一の大晦日、之をいはふのかざりつけや諸式など、何くれと形をそなへたる滑稽にもみゆれど、また一種極りなき趣味あるかな。晩餐を始めたるは六時、をへたるは六時四十分。夜、予は馬場君をとうて媒酌の謝禮及び歳暮の禮を呈し、岡田師よりの畫をやる。次に高田家をとうて亡義兄の肖像、岡田師よりのをわたす。其後また食器等を購入してかへり、諸整理を終へて就褥したるは二時なり。

明治四十二年(1909年)十二月卅日 木曜

雨。

朝、諸整理をなす。午後こたつにねむる。妹子は大人が承諾せよと求められし三條に對する意見を定めん協議をなすべく、高田家をとうて夕刻かへる。姉君に大にしかられたりと、承諾すべきは當然なりとて。兄上より葉書もて廿七日附にて婚儀を遥に祝すとの書來る。兄上へ先日の封書に對する禮書、實家へも禮書をやる。岡田師より高田兄上の肖像及び馬場君への山水畫の小包到着す。

明治四十二年(1909年)十二月廿九日 水曜

雨。

朝ね坊す。十時過兩人高田家をとふ。斎藤大人しばらくして馬場君より同家にかへられたるにより、今一泊滞在をすゝめたるも諾せられず。婚姻届につき實は本人の意思定まらざる間は之をおさへておかん、何ぞ本人は承知せりやとの問あり。あくまでも頑強なるかな。予は不得要領に答ふ。大人曰く、よくゝゝ本人の意思をたしかめて通知ありたしと。零時過出發歸途につかる。予も送るべかりしに命じおきたる車の用意とゞかで殘念ながら缺禮す。歸途妹子と陳列館にて物品をかふ。姉上より封書來る。數回の書及び電報にてまでまねかれしに對して、母上の行かざれしは甚だすまずと母上より呉々も申されたり。依頼せられし金はそれぞれ受取りておくりたれば受取られたし。尚袴、酒、半襟料なりとて金拾貳圓をおくらる。之は直に郵便局にて受取る。夜、岡田師より葉書あり。高田君の肖像不出來ながら小包にておくりたり。しかし今一葉ゆっくり染筆すべければ寫眞原本をおくられたしと。

明治四十二年(1909年)十二月廿八日 火曜

晴、夜雨。

午前十時、斎藤大人は高田家へ行かる。爲二弟は晝食を喫して一時前出發歸途につく。之に脇川への膳部みやげ及び嫁のみやげ其他の進物を托す。馬場君へ昨夜の膳部其他借用品をおくりとゞく。筆屋寶麟堂歳暮をおくる。返禮に酒をやる。夜、山内君と高田姉上及び宿の主人とを招きたるも、高田姉君は夜、小供をつれては苦しければとて辭され、宿主人も人中に列するをいと苦しがる方なりとて辭されて客は山内君一人たり。同君は大に愉快に飲みかつうたうて十時過かへる。

明治四十二年(1909年)十二月廿七日 月曜

晴。

朝、母上へ待ちてをる故來てほしとの電報をうち返事を待つ。寒くて行かれぬとの返電あり。殘念なれど無理もなき事なればよりどころなし。電報うちたる序に山内君をとうて明晩祝酒を一杯あげたければ來てほしとの案内をす。物品數種をかふ。昨日到着の書に對して裁判所へ出頭し、新潟銀行支拂の小切手金拾參圓九拾錢のを受理し、後妹子をして受取らしむ。荷物を整理して室内をつくり擧式の準備をはりたるは午後五時半。同刻洗湯に行きて身をきよめ六時歸宅す。爲二弟來る〔朝、爲二弟より來るとの通知あり〕尋で斎藤大人及び馬場君來車せらる。大人は本日豫定の如く午後二時廿七分新潟驛着にて來港、馬場君の出迎にて一先づ高田家へおちつかれたるものなり。

八時いよゝゝ結婚式にうつり、先づ兩人の結び杯をなし、尋で一同の會宴にうつる。母上來會せられざれば親子の杯は略す。こゝに列したるもの馬場媒酌、斎藤大人、婿、嫁、爲二弟亭主役の五人、母上の席だけは設けて膳をすう。かくて飲みつ歌ひつして十一時半、宴をはる。斎藤大人、爲二弟とは宿られ、馬場君はかへる。之は俥にておくらしむ。高田姉上は妹子の化粧装束かゝりとて盡くしてくれられ、宿の主婦君は臺所かゝりをつとめ、更にその親戚の少女よね子をやとうて予等が用に供しくれらる。前日までつゞける數日の惡天候にて漁なかりしも、今朝はわづかにこれありたれば其魚もて今宵の料理をしたりとて、料理人の手まはりかねて、かくも時刻おくれ、臺所の整頓などあらかたをすまして、妹子とともに就褥したるは一時過ぎ二時に近き頃なり。

明治四十二年(1909年)十二月廿六日 日曜

風雪。

朝、諸整理をなしゐたるに藤田宿主人、予へ到來の書簡三通を持參しくれて曰く、運び殘りの荷物は人夫に命じおきたれば明午後頃はれまをみて運ぶなるべしと。其書は、

 兄上よりの封書廿三日發、要に曰く、永らくの問題こゝに段落を告げてめでたく結婚の式を擧げらるゝ事慶賀す。此時に際し今より大發展に向はれんを切望す。今回、金五十圓を進ずべき意なりしも現下の一家の事情察せらるゝ通りなれば、何卒來年八九月、予が本官とならん後まで猶豫ありたし。予、鄕にあらず萬事此度の擧式に對して缺禮もあるべし。前以て詫ぶる所なり。

 姉上より封書廿五日附要に曰く、七日市ゆきは非常の風雨或は風雪の爲に果さず。また御母上様今回の式に列する事も時節がら到底ならずとのたまふと。

新潟地方裁判所書記課會計部より葉書、本月中旬鑑定人として高田に召喚せられしについての旅費日當を支給すべければ、廿七日午前十時出頭せよと。斎藤大人より封書、長岡三番にて行く。みやげは扇子と酒だけ持參すべければ若し不體裁の事もあらば然るべくなしてほし。婚姻届は年末多忙の爲、届け出するに至らず持參すべしと。實家へ葉書もて是非出港列席たまはりたし、しかし萬々一にも天氣あしくて出來ざる場合とならば、金だけは本月三十日迄に送りてほしとの書をおくる。斎藤大人へ電報もて、届は本年中にせねば年月書込みおきたる爲に不都合を來たすべければ、是非年内に差出してほしとの意を通ず。夜、馬場君を訪うて明晩の結婚式には媒酌人として列席ありたしと依頼し、なほ二三の協議をなす。其次、姉上を訪うて結婚式の順序等を語り、かつ擧行上についての助力を請ふ。

明治四十二年(1909年)十二月廿五日 土曜

風雪。

數日のつかれあり、おそくおく。今日は炊事の器物もそろはず材料もなし。朝食は宿よりもらひたる茶漬となまみそにて認む。飲湯の用意もあらず。鍋にて湯をわかしのむ。斎藤大人と爲二弟とへ宿移轉の報知をなす。朝食後、妹子は姉君をとうて其指導にて物品衣装材料を購入し、夕刻かへる。予は昨日運びはなちおきたる荷物の整理をなす。夕刻また物品を購入し古柳庵老へ物品購入代を支拂ふ。夜、肴や白井に祝言料理を命ず。

明治四十二年(1909年)十二月廿四日 金曜

風雨後曇。

朝、出勤十時限り退出す。それより物産陳列館及勤商場にて家具數品をかふ。晝食後、岩本君來訪、貞一君の爲にとて銘筆畫手本を望みたるにより所持の一部を進ず。同君二時過かへる。是れより移轉の荷造をなし宿の老主人の手により新宿に送る。果さゞるに日暮る。午後四時過妹子來る。晩餐後、殘品を荷造して沐浴したる後、二人して新宿に來る。古柳庵老、依頼の品を集め來る。實家へ宿かへの旨を通知す。斎藤大人より至急封書もて、期日決定方の催促及結納の件につき申送らる。予よりの書と行ちがひたり。

明治四十二年(1909年)十二月廿三日 木曜

好晴。

放課後、永田君と散策の次、松田氏方に立ちより借るべき二階の模様をみる。もう疊建具をしつけあり。是れより勤商場にて二三品を購入し、精良堂に立ちよりて支拂ひをなし、かつ鐵甁をかふによき店をきゝて、東堀通十番町林店にて大體意にかなへる鐵甁をかひ、歸途古柳庵老に家財道具の購入を依頼す。夜、高田姉君をとうて明日借二階へ引越すべきを報告し、次に馬場君をとふ。不在なり。稲垣稔氏へ宿の探索方もう見合せられたしとの書をやる。

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