あとがき
将来身を立てるには、第一に国語漢文、第二に絵画、第三に法律と、父は法曹界に入った長兄への手紙に書いていますが、その国語漢文はもちろんのこと、絵画というのも、あくまで教師としての立場を基本にして考えていたものと思われます。そして、その六十余年の生涯を律していたのは倫理修養の四文字で、これは主として幼少から学んだ四書五経の教えと倫理書仏典の考究から来ていて、母との婚約を破棄しなければならないかという危機にも、倫理書を読んで自らを慰めているように、一生その意思は変わりませんでした。
漢籍に親しんだ文章は簡潔明晰で、長野旅行の際の紀行文等は韻律にも富み、日本外史の格調に迫るものがあると思いますが、いかがでしょうか。また書画の習得研鑽に、日夜その努力を傾注していたことは、克明な日録にあるとおりです。たゞ惜しむらくは教師としての本分領域をいかにしても踏み越ええなかったと共に、天もまたこれに逸材を与えたまわなかった為に、遂に大成を見なかったと言えましょうか。然しながら、その身に備わる廉潔篤実な人柄を汲まれて多くの人士、中でも書家では、師と仰ぐ日下部鳴鶴先生、田代秋鶴氏、岩田鶴皐氏、画家では小林呉橋先生、荒木十畝氏、野生司香雪氏、教育界では高島平三郎氏、宇野哲人氏、宗教界では暁鳥敏師など、又、人間国宝の彫刻家佐々木象堂氏などの知遇を得ることができ、又よき友人知己と教え子に恵まれた一生は、われわれが考えるほど不幸ではなかったのかもしれません。
何事にも礼節規律を重んじ、酒に酔うことを嫌い、友人と遊郭を視察して「不快なり」と言い放つ姿は、固いだけの道学者に映りますが、家庭では家族は勿論、來客と茶菓を傍らに冗談の花を咲かせることが多かったのを思い出します。弾いたオルガン、吹いた明笛がどんな音を出したかは別として、風邪を冒してテニス、ピンポンに汗を流し、正月には同輩友人とかるた、トランプに興じる姿があり、芹川小学校在勤時代、校長とはいいながら六畳一間独身の侘住まいに、逃げ回る鼠を討ち取って快哉を叫ぶ様子は、つい笑ってしまうほど愉快です。余談に及びますが、この鼠族は、父の死後私の不注意もあって倉庫にしていた二階の押入れに跳梁し、日記その他の紙類を喰い千切り復讐を遂げました。ここに収めた日記はその残りの中からの抄禄です。
しかし、鼠害を免れた分だけでも三十一年間に書き継いだ日記の量は膨大で、その全部はとても収載できず、父の生涯中、妻を娶るまでの最も気力充溢した、いわば幸福な時期に限りました。母への愛の告白、求婚、婚約をとりつけるまでの涙ぐましくも幸せな日々、そして好事魔多しと書かれている通り、事起きて暗転、その後も二転三転、悲嘆のどん底から、血書までして漸く兄を説得して成婚の日を迎えるまでの経過は、読んでいただいた通りであります。後年、五十代には常にその病身を労わってきた妻を亡くし、更に人力車事故の後遺症、書道雑誌出版事業の失敗などの苦難の上に、頼みとする長次男を喪い、病苦に耐えながら最後まで誠実に生きることしか考えなかった姿を目の当たりにした者にとって、今この記録を刊行できることは、せめてもの慰めであります。
本来ならこの記録については、父を知る然るべき人に「あとがき」をお願いするのが当然なのですが、最早、皆様鬼籍に入られた方ばかり、やむなく愚生が身贔屓の贅語を記すことになりました。ご了承をお願いすると共に、種々のご援助をいただいた方々に厚く御礼を申し上げ、筆を擱きます。
